金言
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(サムエル記第一3:9)
説教題 「ビジョンをいただくために」
聖 書 サムエル記第一3章1~10節
説教者 栗本高仁師
「私たちの人生において『ビジョン』を持つことは大切だ」という声をよく聞かれるのではないでしょうか。それゆえに、それぞれ個人においてだけでなく、教会においてもビジョンを掲げることがあります。しかし、そもそもなぜビジョンは必要なのでしょうか。新しい一年のはじめの時に、聖書が語るビジョンについて考えていきましょう。
1)ビジョンがなければ…
ある「父親のための学び」の本の中で、次のようなことが書かれています。「父親が家庭を導くリーダーとしてまずしなければいけないことは『家族のビジョンを立てる』ことである」と。おそらく、それは家庭のことだけでなく、政治や科学、スポーツ、芸術などあらゆる領域において大切なことだと言えるでしょう。そして、その本では「ビジョンとは、これから私たちが行くべき道を示してくれる道路地図です」とも紹介されています。つまり、この「ビジョン」がなければ私たちは迷子になってしまうのです。
同じことを聖書は語っています。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう」(箴言29:18)。ある人はこの言葉を意訳して「幻なき民は滅びる」と言っています。私たちが幻(ビジョン)を持たない時、地図がないために、皆が勝手きままに歩いてしまうのです。その行く末は、まさに「滅び」でしょう。私たちは、目的地に向かって、地図(ビジョン)を持って歩いているでしょうか。
2)ビジョンは神様が示してくださるもの
ビジョンを掲げること自体は、教会だけでなく、一般企業でもなされていることですが、聖書の語るビジョンと一般的なビジョンは、果たして同じなのでしょうか。
今日開かれた箇所は、預言者サムエルの少年時代の有名な話です。この時、イスラエルの状況は霊的に貧困状態でした。なぜなら「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(1節)ためです。イスラエルの民は、地図を持たずに歩んでいたのです。しかし、ここで意味することは、単に目標がないということではありません。幻(ビジョン)が示されないというのは、主のことばが語られないことを意味します。つまり、「ビジョン」とは、神様が「ことば」をもって民に示してくださるものなのです。ここが、一般的なビジョンとは異なる点です。単なる目標であれば、人間本位なものとなり滅びに至る危険がありますが、神様が示してくださるビジョンであれば心配はいらないのです。
3)「主よ、お話しください」という祈り心をもって
それゆえに、私たちはビジョンをいただくために、神様の声を聞く必要があります。しかし、私たちもサムエルのように、主が呼んでくださっているのに、それを聞けないことがしばしばあります。
この時、サムエルは主が臨在される神の箱の近くで寝ていました(3節)。そして、主はサムエルを呼びますが、彼は祭司エリが自分を呼んだと思って、彼のもとに行ってしまいます。全く同じことが三度もあって、ようやくエリは「これは主の呼びかけ」であることがわかりました(8節)。そして、サムエルに「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい」(9節)と教えます。
これが、私たちが神のビジョンをいただくために必要なことです。主は、サムエルに対してと同様に私たちにも語りかけておられます。教会にいる時だけでなく、あらゆる日常生活の時にもです。その時に、私たちはそれを主の声として聞くでしょうか。それとも、他の人の声だと思って、聞くのをやめてしまうでしょうか。
私たちがビジョンをいただくために、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という祈り心をいつも持たせていただき、この新しい1年も歩ませていただきましょう。その時、神様は必ずその続きを語ってくださいます!