金言
「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いのための代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)

説教題 「あなたのために」
聖 書 マルコ10:35~45
説教者 矢島志朗勧士

1)人間の性

 イエス様はエルサレムへと上ってゆく途中で、十字架にかかられる予告をされた。その後にヤコブとヨハネが、イエス様が栄光をお受けになるときに自分たちを高い位に座らせてほしいと願った。彼らはイエス様に、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」と聞かれるが、その真意が十分にはわからずまま、「できます」と答えた。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは特にイエス様の側にいた三弟子と呼ばれるが、ここではペテロが出し抜かれたかたちとなった。ほかの十人も腹を立てた。これは他人ごとではなく、私たちの姿であるように思う。人を思いやり、役に立つように生きることを願う心がある一方で、その反対のエゴ、偉くなりたい、人の上に立ちたい、人よりも評価されたい、出し抜きたいといった思いも抱き得るものである。弟子たちのやりとりには人間の性がよくあらわされている。その性質は、歳を重ね、経験を積んだら成熟したり変わる部分もあれば、変わらなかったり、罪や弱さがもっと顕著に自覚される場合もある。

2)仕える者になりなさい

 そんな弟子たちにイエス様は語られる。異邦人の支配者と認められている者たちは横柄にふるまい、偉い人たちは権力をふるうが、偉くなりたいと思う者は皆に仕える者になりなさい、先頭に立ちたかったら僕になりなさい、と。
 キリスト教ではない宗教でも、無宗教であっても立派な人、よく人に仕え助ける人は多くいる。しかしキリスト教のユニークな点、他と違う点は何か。それはイエス様がどんな状況でこの言葉を語ったのかという点にあらわされる。イエス様は十字架にかかる予告、つまり死ぬ予告をされた。弟子たちはその意味がよくわからなかったが、その上で仕えるものになりなさいと語ったのである。そして「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人たちのための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」と語られた。

3)あなたのために

 「人の子」ということばも、「贖い」ということばも、旧約聖書の時代から語られている言葉である。十字架は、ずっと以前から預言されてきたことの成就であった。
 東京都内に約30年間、河川敷で給食伝道礼拝を行っている教会があり、何度か奉仕をさせていただいたことがある。ある日の礼拝では、ホームレスの方など約100人が集い、礼拝後に食料、服、生活物資の配布が穏やかな雰囲気の中で行われた。参加者からは「ここの集まりでは物資を配って終わりでなく、声をかけてくれるのが嬉しい」という声があった。礼拝の司会をする牧師夫人は常に「この交わりのただ中にイエス様がおられます。私たちはイエス様の愛ゆえに交わり、愛を分かち合います」と語り続ける。ボランティアの方も参加者と言葉を交わし、共に歩まれている。
 その礼拝の中で「あなたのために」という曲を紹介し、歌詞を読み上げたうえで、メッセージをした。
  「あなたのために 死んだ人がいる あなたのために死んだ人がいる
   すべての重荷から救うため 孤独の中から救うため
   キリストが十字架で死んだのは あなたを愛してるから」

 私たちが共に礼拝をし、分かち合う時間を過ごさせていただいている真ん中には、イエス様が命を与えてくださったという愛がある。「本物の愛は自らを隠す」と語った人がいるが、私たちの交わりの中心に、本物の愛がある。多くの罪が世界にうずまく中、イエス様が身代わりにさばきを受けて、よみがえってくだったから、今日私たちは生かされて、交わりが与えられている。
 このイエス様は、私たちを見捨てない。見捨てられたかのように思えるほどの苦しみを通ることがあるかもしれない。でも、決して見捨てない。そのサインを神様は実は日々与えてくださっている。その愛に私たちは、生かされ合っているのである。
 このことを忘れて自力に頼っても、ある程度は走れるかもしれない。しかし人間的なものは、必ず枯れる。神様が与えて下さって湧いてくる思い、愛、情熱に気づく時、私たちは真の力を得て進んでいくことができる。いのち与えるために来てくださったイエス様を覚えながら、その愛に気づかされ、共に生かされて、託された使命を果たしていきたい。