金言
「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」(出エジプト記4:5)

説教題 「何度でも何度でも」
聖 書 出エジプト記4章1~17節
説教者 栗本高仁師

 『何度でも』という有名な曲があります。「諦めなければ何かが起きる」、そんな勇気を私たちに与えてくれる歌です。しかし、聖書を見ていくときに気づくことは、「誰よりも諦めないのは、私たちではなく『神』である」という事実です。まさにこのモーセの召命物語で、そのような神の姿を見ることができます。

1)信頼できない私たちに対して

 神様はイスラエルの民を奴隷から救い出すために、モーセを選びます。しかし、モーセは過去のトラウマ(=民の拒絶)ゆえに、困惑し、心配を神様にぶつけます。そのようなモーセに対して、神様は「わたしがあなたとともにいる」という約束を与えるばかりか(3:12)、主の名までも教えてくださいます(3:14)。しかし、それでもモーセの不安は取り除かれません。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう」(1節)と続けて反論するのです。主はその直前にきちんと約束を与えておられました。「彼らはあなたの声に聞き従う」(3:18)と。要するに、モーセは神様の約束を信じることができなかったのです。私たち人間の根本的な問題が、ここにあります。私たちも確かに「神がともにいてくださる」という言葉を何度も聞いてはいます。しかし、本当にその事実を私たちは信じているでしょうか(マルコ4:12)。モーセの問題は、実は私たち自身の問題でもあるのです。
 しかし、そのような私たちに神様はどのようにかかわってくださるでしょうか。主はモーセに、まず二つの「しるし」を見せます。一つは、杖を蛇に変えるしるし(2〜4節)、もう一つは彼の手をツァラアトに冒させるしるしです(6〜7節)。これらのしるしは、民たちがモーセ(が主から遣わされたこと)を信じるためのものでした(5,8節)。ここで大切なことは、単にしるしを見せたのではなく、モーセに「しるし」を行わせたことです。「わたしがともにいる」と言われた主が、モーセの手とともにいてくださることを証明してくださったのです。しかも、主は万が一に備え、三つ目の「しるし」までも与えます(9節)。私たちの信じている神様は、ご自身を信頼できない者に対して、ここまで手を尽くしてくださるお方なのです。

2)何度も拒む私たちに対して

 それでもなおモーセは抵抗を続けます。今度は、「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません」(10節)と、自らが口べたであることを理由に挙げます。ここまでの神様のご配慮を考えると、もはやこれは言い訳に聞こえます。それゆえに、主は「人に口をつけたのは…わたし、主ではないか」と少し声を荒げます(11節)。しかし、主は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える」(12節)と言い、「わたしがあなたとともにいる」(3:12)との約束をここでも貫かれるのです。
 そのように忍耐をもってかかわられた主も、次のモーセの一言で、ついに堪忍袋の緒が切れます(14節)。何とモーセは「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」と言うのです(13節)。ここまでは色々と理由をつけていましたが、最後は理由なき抵抗です。普通に考えれば、この一言でモーセを遣わすことはやめるでしょう。しかし、この後の神様の発言に私たちは驚きを隠せません。神様はモーセを突き放すどころか、むしろ「それでは、あなたの兄で、雄弁なアロンに、代わって語ってもらいなさい」と彼に歩み寄るのです(14-16節)。おそらく、アロンを用いることは当初の計画ではなかったでしょう。しかし、神様はこのように手を替え品を替え、何とかモーセを遣わそうとされるのです。まさに、「何度でも何度でも」、神様は諦めることなくモーセを説得し続けたのです。

 神様は私たち一人ひとりを救いに導き、それぞれに特別な使命を与えておられます(Iコリント12:4-6)。神様に信頼できずに、神様の招きを「何度も」拒み続ける私たちかもしれません。しかし、神様がモーセになさったのと同じように、「何度でも何度でも」、諦めずに、忍耐強く、私たちとかかわってくださるのです。この神様のあわれみゆえに、私たちは一歩踏むだすことができるのではないでしょうか。