金言
「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。」(出エジプト記5:2)

 私たちが敵と戦う時に大切になることは、戦う相手のことをよく知るということではないでしょうか。私たちの最大の敵、それは「罪」に他なりませんが、イスラエルを奴隷として苦しませる「ファラオ」は、まさに「罪」のような存在です。

1)罪の本質とは?ー私は主を知らない

 民の信任を得たモーセとアロンは、いよいよファラオのもとへ行き、「わたしの民を去らせない」という主のことばを取り次ぎます(1節)。ファラオの答えは、もちろん「No」でした。しかし、ただ「イスラエルは去らせない」と言ったのではありません。彼の第一声は「主とは何者だ」であり、「私は主を知らない」と続けたのです(2節)。実は、この言葉に、私たちを支配する「罪」の本質が表されています。
 彼が「私は主を知らない」と言ったのは、単にどのような神なのか知らない、という意味ではないでしょう。むしろ、自らが全てのものの上に立つ「支配者」であり、主という神を私は「認めない」という言い分なのです。つまり、「神を神としない」というところに、「罪」の本質があるのです。その罪が私たちにも「主とは何者だ」と私たちに語りかけ、攻撃してくるのです(創世記3:4-5)。

2)罪がもたらすものとは?ー重たい労役

 ファラオは、モーセとアロンのことばに耳を貸さないで、「おまえたちの労役に戻れ」(4節)と言い渡します。しかし、それだけではありません。ファラオは、イスラエルの民の「労役」を今まで以上に重くします(9,11節)。ファラオの興味関心は、彼らを労働力として搾取することでしかありません。まさに「罪」とはそのようなもので、私たちを労苦の中に閉じ込めようとするのです。それは神が出エジプトにおいてなされた解放の御業とは全く反対のものなのです。
 また、ファラオは「彼らが怠け者であるがゆえに、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと叫んでいるのだ」と言ったり(8節)、「偽りのことばに目を向けさせるな」(11節)と言ったりします。つまり、ファラオの狙いは、余計なことを考える暇を与えないことでした。まさに、罪は私たちの思考を停止させます。私たちを支配する罪はこれほどまでに恐ろしいものなのです。

3)罪の真の恐ろしさとは?ー罪の支配へと引き戻すこと

 これほど恐ろしいことがわかっていれば、その支配から逃れたいと思うのが普通ですが、イスラエルの民はどうであったでしょうか。ファラオにさらなる労役を課された彼らは、当然今までのような仕事量を仕上げることはできません(14節)。そのことで打ちたたかれたイスラエルの子らはファラオのところに行って叫び、その理不尽さを訴えます(15-16節)。しかし、ファラオは心を頑なにして、彼らの訴えを斥けます。
 注目すべきは、この後の彼らの言動です。何と彼らは、あのモーセとアロンを責めて「このような事態になったのはあなたがたのせいだ」と訴えるのです(21節)。彼らは、モーセとアロンのことばを聞き、わざを見て、信じたものたちです(5:31)。しかし、彼らはファラオの支配から逃れるためにモーセとアロンに協力するのではなく、むしろ彼らを突き放し、ファラオの支配にとどまろうとするのです。ここに、罪の本当の恐ろしさがあるのではないでしょうか。罪は、長い間私たちを支配することによって、私たちを惑わし、だんだん目を見えなくさせ、私たちが「罪の支配にとどまりたい」と思うように誘うのです。

 ファラオの言動を通して、私たちを支配する罪が一体どのような敵であるのかを知ることができます。それでは、私たちはどのようにこの敵と戦えば良いのでしょうか。それを知るヒントは、「私は主を知らない」という罪の本質を表すファラオの言葉にあります。罪の根本から解決する必要があります。つまり、私たち人間を造られた「主を知ること」以外に、この敵と戦う術はありません。それゆえ、私たちは聖日礼拝を大切にし、日々の御言葉と祈りを大切にしているのです。