金言
「あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。」(出エジプト記6:7)

説教題 「ご自身を知らせる神」
聖 書 出エジプト記5章22~6章9節
説教者 栗本高仁師

私たちは近視眼的に物事を判断しやすいものです。まさに、モーセの問題でした。そのようなモーセ、また私たちに、主はどのようにかかわってくださるでしょうか。

1)全貌が見えないモーセ

 民の信任を失ったモーセは、主のもとに戻り、主に訴えます(22-23節)。彼は「主は何もしてくれない」(23節)と言うだけにとどまらず、「主が民を苦しめている」と言うほどまでに(22節)、主を非難しています。なぜ、そこまで言うのでしょうか。それは、主が「わたしがエジプトの手からわたしの民を救い出す」(3:8)、「あなたをファラオのもとに遣わす」(3:10)、「(民は)あなたの声に聞き従う」(3:18)と言っていたにもかかわらず、それとは全く逆の状況となっていたためです。
 確かに、彼の主張は完全に間違いではなく、モーセの一番恐れていたこと(=民からの拒絶)が起きたことも考えると、彼の気持ちも理解できるでしょう。しかし、私たちは主がファラオについて事前に何と言っていたかを見過ごしてはなりません。まさに、モーセはその点を見落としていたのです。彼は「主は何もしていない」と言いましたが、ファラオが心を頑なにして民を去らせないことは、主にとって想定内でした(3:19, 4:21)。それゆえに、主が主導権を持って計画を遂行していることを、もう一度モーセに語るのです(1節)。私たちも、主の約束の一部だけを聞いて、その全貌が見えていないことがあるかもしれません。しかし、主は「わたしがしようとしていることが今にわかる」と語ってくださいます。

2)「わたしは主である」と語り続ける神

 このようなモーセに対して、主は「わたしは主である」とご自身の名を告げ、イスラエルの民にも告げるように命じます(2,6,8節)。すでに主はモーセにその名を教えていましたが(3:14-15)、なぜここでもう一度その名を告げられたのでしょうか。それは、「わたしはある」と言われる方は、何もしない神ではなく、「意志をもって働く神」であることを、もう一度モーセにも、民にも、教えるためなのです。だからこそ、主は「あなたがを…導き出す」「あなたがたを…救い出す」「あなたがたを…贖う」(6節)と力強く宣言するのです。私たちが困難の中で打ちひしがれ、「神様は何もしてくれないではないか」と嘆いてしまう時に、神様は「わたしは主である」と何度も語りかけてくださるのです。
 また、神が「主」という名で行動することは、かつてイスラエルの父祖たちと立てた契約に基づいていました(3-5節)。主が主導権を持っていることを見ましたが、実はイスラエルの民は、エジプトに移住する前から、ずっと主の御手の中にあったのです。世代を超えて、時代を超えて、主は働き続けてくださるのです。そうであるならば、この時代に主が働かれないことがあるでしょうか。

3)私たちが知るのではなく、主が知らせてくださる

 このような大いなる御業の目的は何でしょうか。それは、簡潔に言えばイスラエルが「主を知る」ということです(7節)。実は、この「主を知ること」こそが、出エジプトの最大の目的なのです。それでは、どのようにして「主を知ること」ができるのでしょうか。ここまでのモーセと民の言動、またこの直後の民たちの言動(9節)を見ても、私たちが自分の力で「主を知る」ことは容易ではありません。しかし、主はそのことをよくご存知です。だからこそ、主はモーセに、ご自身を知らせ続けてくださったのです。「私たちが主を知る」のではなく、いつも「主が私たちにご自身を知らせてくださる」ことを覚えたいのです。
 その完全の現れが「イエス・キリスト」です(ヘブル1:3)。それは、イエス様ご自身が「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言われた通りです。確かに、私たちはこの目でイエス様を見ることはできません。しかし、イエス様を証する「聖書」が(ヨハネ5:39)、私たちに主を知らせてくれるのです。それゆえに、私たちはみことばを聞き続けるのではないでしょうか。