金言
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)

説教題 「『わたしだ』と言われる主」
聖 書 マルコの福音書6章45~52節
説教者 栗本高仁師

 今年度最後の礼拝を迎えました。当然のことですが、一年が終われば、新しい一年が始まります。一年を通して、いつも順風満帆、もしくはいつも通りであればいいのですが、たいていそう上手くはいきません。それは、イエス様の弟子たちにとっても同じでした。

1)いつもとは違うところで

 今日の話は、イエス様が弟子たちを「無理やり船に乗り込ませ」というところから始まっています(45節)。なぜイエス様は、弟子たちを船に乗り込ませたのでしょうか。それは、その日の始まりを見るとわかります。イエス様は彼らを休ませるために、寂しいところに行かせました(31節)。ところが、群衆が押し寄せ、結果的に休めていなかったのです。そのため、イエス様が群衆をお一人で引き受けて、弟子たちを先に行かせたのです。ただ、その後イエス様は、弟子たちを追いかけることはせずに、お一人で山に祈りに行きます(46節)。そのため、「湖の真ん中に」ある舟は、弟子たちだけになってしまいます(47節)。そういう時に限って不足の事態が起きます。ガリラヤ湖に北側にある山から吹き下ろす「向かい風」で、彼らは動けなくなってしまいます(48節)。
 私たちもときに、いつもとは違う状況で、逆風を経験することがあります。しかし、神様は「いつもとは違うところで」しか学ぶことができない特別なことを、私たちに教えようとされるのです。

2)水の上を歩き、通り過ぎようとするイエス様

 その特別なこととは何でしょうか。イエス様は、山で祈っておられましたが、弟子たちから目を離してはおられませんでした。イエス様は「弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て」おられました(48節)。そして、彼らのところへ向かいます。私たちが逆風を経験するとき「イエス様は私のことなど見ておられない」と思ってしまいがちですが、決してそうではありません。イエス様は私たちを見ておられ、私たちのもとに来てくださるのです。
 しかし、イエス様はここで不思議な行動をとられます。何と「そばを通り過ぎるおつもりであった」というのです(48節)。ここには、イエス様の意図がありました。「湖の上を歩き」、「そばを通り過ぎる」、まさにそれは、この天地を造られた神がなされることです(ヨブ記9:8)。つまり、イエス様はここで「わたしこそが、天地万物を治める神である」と彼らに教えようとされたのです。

3)逆風の中で聞こえてくるイエス様の声

 しかし、弟子たちの目は閉ざされていました。彼らは湖の上を歩くイエス様を見て「幽霊だと思い、叫び声をあげ」てしまいます(49節)。そのような彼らに対して、イエス様はどうされたでしょうか。怒って本当にその場を通り過ぎてもよかったかもしれませんが、今度は彼らが理解できるように、はっきりと「ことば」でご自身を明らかにします。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と(50節)。単にイエス様は「ここにいるのはわたしだよ」と言っておられるのではありません。イエス様は「わたしはある」という名の神であることを、彼らに示されたのです(出エジプト3:14)。そして、語られただけでなく、実際に嵐を静めてくださいました(51節)。
 私たちも「逆風」の中にいると、イエス様のサインに気づけないことが多くあります。しかし、そのような私たちに分かる方法でイエス様は近づいてくださって、「わたしだ。恐れるな」と私たちに語ってくださるのです。そして、私たちが今日何よりも覚えたいことは、そのイエス様の声を「逆風」の中で聞くということに、大きな意味があるということです。それゆえ、私たちが逆境や苦難を経験する中でも、前を向いて歩くことができるのではないでしょうか。確かに、そこに苦しみはあるでしょう。しかし、イエス様は、私たちの旅路における「舟に乗り込んで」、必ず「嵐を静めてくださる」のです(51節)。

 新しい一年を歩み出そうとする中にあって、「わたしだ」と言われる主の御声を、私たちも今日聞かせていただきましょう。