金言
「トマスはイエスに答えた『私の主、私の神よ。』」(ヨハネ20:28)

説教題 「私の主、私の神」
聖 書 ヨハネの福音書20章24~31節
説教者 栗本高仁師

 イースターおめでとうございます。イースターとは何の日でしょうか。もちろん「イエス・キリストの復活を記念する日(復活祭)」という答えは間違っていません。しかし、重要な問いは「イエス様の復活は『あなたにとって』どのような意味(意義)があるのか」ということです。

1)取り残されたトマスの思い

 「12弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマス」(24節)はどのような人物であったのか、聖書にはほとんど記されていません。それにもかかわらず、彼は「疑り深いトマス」としてよく知られています。それは、この場面における彼の発言に起因しています。
 復活の日の夕方、イエス様は弟子たちに現れてくださいました(19節)。ところが、トマスだけがその場にいなかったのです(24節)。彼らはトマスに「私たちは主を見た」と言いますが、トマスは「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言います(25節)。確かにここには、他の弟子たちのことばを信じることができず、心が頑なになっている姿があります。
 しかし、この発言の背後にある彼の気持ちを考えることは大切です。おそらく「自分だけが取り残された」ように感じ、彼らの喜びについていくことができなかったのでしょう。そう考えると、これ(=26節の発言)は「私も直接イエス様にお会いしたい」という彼なりの表現であったとも言えるでしょう。ある意味で、トマスは徹底して「私にとってのイースター」を見出そうとしていたのです。このマインドは私たち一人ひとりににとっても大切ではないでしょうか。

2)一人を大切にするイエス様

 

 それから八日後のことです。八日目と全く同じ状況で(26節前半)、全く同じ出来事が起きたのです(26節後半)。違ったのは、トマスも一緒にいたということだけです。つまり、トマスのためだけに、イエス様は現れてくださったのです。そして、イエス様はトマスの要望通り「わたしの手の釘跡に指を当てて、わたしの脇腹に手を入れてみなさい」と言われます(27節a)。イエス様の一番の願いは何だったでしょうか。それは「信じない者ではなく、信じるものにな」ってもらうことでした(27節b)。そのためであるなら、イエス様は気前よく、その手と脇腹を見せてくださり、さわらせてくださるのです。それほどまでに、イエス様は「一人が」信仰に導かれることを願っているのです(マタイ18:13-14)。
 トマスだけのために現れてくださったイエス様は、他の誰でもない「あなたにも会いたい」と願っておられます。そして「あなたが信じることができるように、わたしは手を尽くす」と言っておられるのです。

3)「私の主、私の神よ」と告白できる私たち

 復活されたイエス様と直接出会うとき、何が起こるでしょうか。「釘の跡に指をいれ、その脇腹に手を入れてみなければ」と言っていたトマスでしたが、実際にはそうすることなく、信仰告白に導かれます。「私の主、私の神よ」(28節)、これは「あなたになら、私の人生を委ねることができます」という信頼の告白です。トマスは、イエス様と深くつながったのです。そこには「豊かないのち」が満ちあふれます(31節)。
 しかし、私たちはどのようにしてイエス様と直接出会うことができるのでしょうか。今やトマスと同じようには、イエス様を見ることはできません。しかし、イエス様は素晴らしいことを私たちに約束してくださいました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」とイエス様は最後に言いました(29節)。これは、トマスを責める言葉ではありません。そうではなく、後の私たちに対する希望なのです。この後、イエス様は昇天されますが、「見ないで信じることができる。そしてその人たちは幸いだ」とイエス様は明言されたのです。
 それゆえに、私たちもトマスと同じように、直接イエス様と出会い、「私の主、私の神よ」と信仰を告白することができるのです。

 イースターとは、はるか昔の、遠い世界で起きた出来事ではありません。むしろ、この時代に生きる、私たち一人ひとりに起きる出来事です。その幸いを覚えさせていただきましょう。