金言
「主はこう言われます。あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知る、と。」(出エジプト記7:17)
文明が発達するところには大河があり、出エジプトの舞台であるエジプト文明はナイル川に支えられていました。彼らは、その神「ハピ」を信奉していました。「わたしのしるしと不思議を…数多く行う」(7:3)と言われた主は、いよいよ「十の災い」をエジプトに下していきますが、その第一の災いの舞台が「ナイル川」でした。果たして、そこを本当に治めている方はどなたなのでしょうか。
1)勝利者なる主が戦われる 〜 杖の戦い
「十の災い」の前に、まず「杖の戦い」が行われます。主は、モーセとアロンに対して「もしファラオが『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、アロンの杖を取って、ファラオの前に投げなさい」と命じます(9節)。なぜ全ての災いの前に、このことが行われたのでしょうか。主がモーセを召し出した時のことを思い返してみます。主に信頼できないモーセに対して、主は彼の「杖」を用いて「しるし」を見せられました(4:1-5)。この杖は、神がともに働いてくださることの証拠であり、それゆえに「神の杖」なのです(4:20)。これから起こる出来事全ては「神のわざ」であることを、まずこの戦いで明らかにしようとされたのです。
もちろんファラオも黙ってはいません。彼も、エジプトの呪法師たちを呼び、同じことをさせます(11節)。しかし、最終的には「アロンの杖は彼らの杖を呑み込んだ」のです(12節)。たとえエジプトの呪法師たちが同じことをできたとしても、真の勝利者は「主」なのです。
2)全てを治める神のわざ 〜 第一の災い
主が事前に言われたとおり(4:21,7:3-4)、ファラオも簡単には彼らのいうことを聞き入れません(13節)。このような心を頑なにするファラオに対して、主は「一つ目の災い」を起こします。主はモーセに対して「ファラオのところに行って、『次のことによって、わたしが主であることを知る』と告げなさい」と言われます(14-17節)。「次のこと」とは、蛇に変わった「杖」を使って、ハピ神が治める「ナイル川」を血に変える、ということでした。モーセとアロンは主が命じられたとおりに行うと、本当にナイル川の水は全て血に変わります(20節)。その結果、主が告げていたとおり、ナイル川の魚が死に、臭くなり、水を飲むことができなくなってしまいます(18,21節)。いのちをもたらすはずのナイル川が、死をもたらしてしまったのです。
しかし、ここでもエジプトの呪法師たちは同じことをします(22節)。ただし、彼らはこの水を元に戻すことはできませんでした。それゆえ、全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘り続け、それから1週間が経過したのです(24-25節)。つまり、全てを造られた神である「主」は、ナイル川の「ハピ神」にまさる方なのです。「主」は、「主を知らない」と言うファラオに(5:2)、このわざを通してご自身を知らしめたのです。
3)いのちをもたらす神
しかし、「創造主なる神ご自身が、死をもたらしたのではないか」という思い違いをしてはいけません。なぜなら、「死」は「罪の報酬」として訪れるものだからです(ローマ6:23)。神は、罪に対して正しい「さばき」をするお方なのです。ファラオが「罪」のような存在であるということを見ましたが、ファラオの罪がこの「死」をもたらしたのです。
私たちを造り、いのちを吹き込んでくださった神は、むしろ私たちにいのちを与えてくださいます。イエス様は言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、…その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:37−38)。また、「主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」(詩篇1:1)ともあります。私たちの主は、私たちに「永遠のいのち」をもたらし、豊かな実を結ばせてくださるのです。
自然界を治め、私たちにいのちをもたらすのは、この世界を造られた「創造主である神」であることを深く覚えたいのです。