金言
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル3:7-8)

説教題 「心をやわらかく」
聖 書 出エジプト記8章1~19節
説教者 栗本高仁師

 本日は母の日ですので、日頃の感謝を互いに伝えたいと思います。しかし、私たちは身内であるがゆえに意固地になってしまうことがあります。出エジプトに出てくるファラオは、まさに「心を頑なにする者」でした。

1)警告を与えてくださる神

 第一の災いを経験しても「心を向けることがなかった」ファラオ(7:23)のもとに、主はモーセを再び遣わします(1節)。そして、第二の災いについての警告を与えます。その舞台は「ナイル川」から人が暮らす「地」に移り、主は「全領土を蛙によって打つ」(2節)と言います。全領土とはどういうことでしょうか。蛙が川から這い上がり、何と住居のあらゆる場所(寝室、調理場)に入り込んでくるというのです(3節)。それもファラオの家だけでなく、民と全ての家臣の家にまでです(3-4節)。
 しかし、主はここで問答無用に災いを下すと言っているのではありません。「私の民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら…」(1-2節)という条件付きでした。よく考えると、それは憐れみではないでしょうか。「わが民イスラエル」を苦しめる者であるなら、無条件に災いを下しても良さそうですが、主は事前に警告をされたのです。心を頑なにして主に背を向ける者にも、主はまず警告をもって語りかけてくださいます。それは、「本物の神様のもとに全ての者が立ち返ってほしい」という主の願いの表れではないでしょうか。

2)警告も、憐れみも、進言も無視するファラオ

 ファラオはこの警告を聞かなかったのでしょう。そのため、主は第二の災いを行うように命じ、アロンの手によって、蛙がエジプトの地をおおいます(5-6節)。前回までと同じことが起こりますが、一つ違う展開となります。ファラオは、モーセとアロンを呼び「主に祈ってほしい」と願い出るのです(8節)。これは、単にこの状況に耐えられなくなっただけではなく、「イスラエルの神には敵わない」という降伏宣言です。
 モーセはファラオの要望とおり「主に叫び」ますが(12節)、ここでも主の憐れみを見ることができます。神はご自身の民の叫びを聞いてくださるのみならず(2:23)、何と「心を頑なにして、主に敵対する者」の叫びさえも聞いてくださるのです(13節)。しかし、ファラオはどうだったでしょうか。彼は「一息つけると思うと」再び心を硬くします(15節)。恐ろしいほどまでに、「心を頑なにしてしまう」私たち人間の姿がここにあります。憐れみを表す神に対して、私たちは「何度も」心を頑なにしてしまうことがあるのではないでしょうか。
 続く第三の災いでも、ファラオは「心の頑なさ」を発揮します。今度は、「地のちりがみな、エジプト全土でブヨとなり」、「人や家畜に付」くという災いです(17節)。そして、呪法師たちも同じことを試みますが、今回はできませんでした(18節)。そのため、彼らはファラオに「これは神の指です」(19節a)と言い、「イスラエルの神こそ本物である」ことを認めます。しかし、味方である彼らのことばにさえ、ファラオは耳を貸さなかったのです(19節b)。

3)「今日」という日に「主の声」を聞こう

 このように見ていくときに、「心を頑なにするとは、どういうことなのか」が分かってきます。それは「声を聞かない」ということです。ファラオは、神の声にも、味方の声にも、耳を傾けなかったのです。その結果、皮肉なことに、彼だけでなく、周りにも被害を広げてしまいます。
 私たちは、このところから何を学びとる必要があるでしょうか。それは、私たちにとって大切なことは、「心をやわらかくする」ということです。それは、先ほどの言葉で言い換えるならば「声を聞く」ということでしょう。聖書は語ります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル3:7)と。また、「今日」と言われている間に、日々互いに励まし合って(同3:13)と勧めています。一人では「主の声」を聞くことは難しいかもしれません。だからこそ、互いに励まし合いならが、「今日」という日に「主の声」を聞かせていただこうではないでしょうか。