金言
「わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。」(出エジプト記8:23)

説教題 「特別に扱ってくださる神」
聖 書 出エジプト記8章20~24節、9章1〜12節
説教者 栗本高仁師

 特別に選ばれるということは、とても光栄なことでありますが、私たちにとってそれはどのような意味を持つのでしょうか。

1)深まっていく災い

 ここまで、第一の災いから第三の災いまでを見てきました。十の災いを見ていくときに、三つで1サイクル(①第一〜第三の災い、②第四〜第六の災い、③第七〜第九の災い)になっていることがわかります。例えば、各サイクルの一つ目は「モーセが朝、ファラオの前に出る」ということが繰り返されています(7:15, 8:20, 9:13)。また各サイクルの三つ目はファラオに警告することなしに災いが行われています(8:16-, 9:8-, 10:21-)。しかし、それは単に繰り返されているだけではなく、どんどん深まっていきます。そのように見ると、まるで「らせん階段」を下るかのように、似たようなことが繰り返されながら、災いが深まっていることがわかります。
 ある意味で、人類の歴史も「らせん階段」のようにたとえることができるでしょう。同じような過ちが繰り返されつつ、深刻になっている現実があるためです。だからこそ、歴史を知り、そこから学ぶようにと招かれているのではないでしょうか。

2)イスラエルの民は特別に扱われる

 それでは、第四の災いからどのように深まっているのでしょうか。主は、これまでと同様に、モーセをファラオのもとに遣わします。そして、今度は「アブの群れ」の災いについて警告を与え(20-21節)、「アブの群れによって地が荒れ果て」ます(24節)。しかし、今まではエジプトの全土で災いが起こっていましたが、今回はエジプトの中でイスラエルの民がいる「ゴシェンの地」だけ何も起こりませんでした(22節)。つまり、「ご自身の民」と「ファラオの民」を区別されたのです(23節)。このような区別ができるのは、「イスラエルの主こそ、全地を治める神」であるためです。主は、一貫してそのことをファラオに知らせようとしておられるのです(22節)。
 こうして区別されることによって、エジプトに対する災いは深まりましたが、それは第五の災いにおいても同様でした。次の災いは、「地」にいるあらゆる「家畜」が、「非常に重い疫病」によって死ぬというものでした(3, 6節)。しかし、ここでも主は「イスラエルの家畜」と「エジプトの家畜」を区別したので、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした(4, 7節)。そして第六の災いでは、「地」にいる「家畜」だけでなく、「人」にまで被害が及びます(10-11節)。おそらく、ここでも「イスラエルの民」と「エジプトの民」が区別されたでしょう。区別が、「地」だけでなく、「地」にいる「家畜」「人」にまで広がっていくのです。

3)私たちキリスト者にとって特別に扱われるとは?

 神様は、「ご自身の民、イスラエル」と同じように、キリスト者である私たち一人ひとりをも特別に扱ってくださいました。どのようにしてでしょうか。
 主は「わたしの民をあなたの民と区別して、『贖い』をする」(23節)と言われましたが、まさに私たち一人ひとりは「罪の赦し」という「贖い」を受けたのです(エペソ1:7)。ファラオの罪に対してなされた「さばき(災い)」からイスラエルの民だけが守られたように、神は私たちを選び特別に扱ってくださり、「罪のさばき」から守ってくださるのです。
 しかし、それはただ単に「私たちだけが守られる」ということだけではありません。ペテロは、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民…です」(Iペテロ2:9)と言います。私たちは「聖なる祭司」として、世界に祝福を取り次ぐ使命を果たすために、「特別に扱われた」のです。それゆえ、ときに異質な存在として周囲から見られることがあるかもしれません。しかし、それは私たちが使命を果たしていることの一種の表れではないでしょうか。

 私たち一人ひとりは、特別な使命を果たすために、特別に選ばれたお互いであることを、もう一度覚えさせていただきましょう。