金言
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)
説教題 「父の約束を待ちなさい」
聖 書 使徒の働き1章3~8節
説教者 栗本高仁師
ペンテコステおめでとうございます。聖霊が降り、教会が誕生したことを心からお祝いします。
月の最終週ですので、私たちの教会に与えられたビジョンについて御言葉から聞いていきたいと思います。今月は二つ目の「宣教」について見ていきます。
1)遣わされて、証人として生きる
まず宣教とは何でしょうか。ラテン語では「ミッシオ」と言います。英語の「ミッション」の由来です。それは、本来「遣わす」という意味です。イエス様は「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)と言いました。その目的は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝え」るためです(マルコ16:15)。イエス様ご自身もそのためにこの世に遣わされたと言っています(ルカ4:43)。ここに、私たちのビジョンがあります。
それでは「福音を伝える」とはどういうことなのでしょうか。もちろん、それはイエス・キリストの十字架と復活を伝えることです。しかし、それは単に情報を伝えるだけのことではありません。私たちは、この福音を聞き、イエスと出会うことができました。それゆえ、「このイエスの証人」として生きるように招かれているのです(8節、ルカ24:47-48)。つまり、「福音を伝える」とは、「十字架に架かられ、復活されたイエス様が、この私にどのような素晴らしいことをしてくださったかを証しする」ことなのです。
2)父の約束である聖霊を待つ
しかし、イエス様がこの話の最初に言われたことは何だったでしょうか。それは「エルサレムを離れないで、…待ちなさい」(4節)ということでした。「遣わされる(=出て行く)」ということとは反対のようなことを、イエス様はなぜ命じたのでしょうか。
それは、この「父の約束」が「宣教」においてなくてはならないものだったからです。つまり、一人ひとりの上に「聖霊が降る(聖霊によるバプテスマを授けられる)」ことがなければ(5節)、弟子たちは福音を宣べ伝えることはできなかったのです。復活のイエス様とすでに出会っていた彼らが再び漁に行ったことは、そのことを例証しているでしょう(ヨハネ21:3)。しかし、そのような彼らが(ユダヤ人を恐れ戸に鍵をかけていた彼らが!)、ユダヤ人に捕えられ、脅されてもなお、大胆にイエス様を証しし続けたのです(使徒4:18-20)。まさに、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」(8節)との約束通りに、彼らは「宣教のための力」が授けられたのです。
「宣教のために最も必要なことは何か」と問われるならば、それは間違いなく「聖霊」であると言うことができます。まさに「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)なのです。
3)心を一つにして祈り合う
二つ目のビジョンの冒頭は「心を一つにして祈り合い」となっていますが、私たちは一体何を祈り合うのでしょうか。
実は、イエス様が昇天された後、エルサレムにとどまっていた使徒たちがしていたことが、「心を一つにして祈る」ということでした(14節)。彼らが何を祈っていたのかは、もちろん「父の約束」である「聖霊が降りますように」という祈りです。
まさに、ここに私たちの祈るべき祈りがあります。時代は変化しても、神様の宣教の方法は変わりません。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、…地の果てまで、わたしの証人となります」(8節)との通りです。これは「聖霊が降るときに、力を受けて、必ず証人となる」という「父の約束」です。
だからこそ、今日の私たちも「さらに聖霊に満たしてください」と「心を一つにして祈り合い」、「宣教」へと遣わされていこうではないでしょうか。