金言
「私は天からの幻に背かず…、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきました。」(使徒26:19-20)

 「人はそう簡単に変わることができない」とよく言われますが、それはなぜでしょうか。おそらく人が見ているのは、その人がどれだけ反省の弁を述べているかではなく、その人がどのように行動しているかを見ているからでしょう。私たちがファラオの行動を見るとき、彼は全く変わっていないことがよく分かります。

1)警告を聞く者が出てくる

 十の災いの最後のサイクルに入り、七つ目の災いとなります。二つ目の災いから舞台は「地」が続いていましたが、ここからさらに「天(空)」にまで広がります。主は再び朝早くにモーセを遣わして、今度は天から雹を降らせると告げます。しかも、エジプト史上初の「非常に激しいもの」と言われます(18節)。それは、イスラエルの神こそが、全地において比類なき、力ある方であることを示すためです(14,16節)。
 しかし、ここでも主は事前に警告として語り、この災いから逃れるようにと勧めます(19節)。するとどうでしょうか。おそらく今まで事前に警告を聞いた人たちはいなかったでしょう。しかし、今回は何と「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者たち」が出てきます。彼らは警告を聞き、自らのしもべと家畜を家に避難させます(20節)。もちろん、「主のことばを心に留めなかった者」もいました(21節)。しかし、他の神々を信じる人々が、「主(イスラエルの神)」を認め始めたのです。私たちの信じる神様は、そのようなことができるほどに力強く働いてくださいます。どれほど心強いことでしょう。

2)ファラオは罪を認めるが、罪の中にとどまる

 このように主は一日(18節)、逃げる猶予を与えた後に、予告通り災いを下します。モーセが主の指示通り、杖を持った手を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を天から送ったのです(23節)。まさに、川や地だけでなく、天も主が統治されていることがわかるのではないでしょうか。そして、雹がエジプト全土の人、家畜、そして野の草、木にいたるまで打ちます(25節)。ただし、ここでもイスラエルの子らが住むゴシェンの地は守られます(26節)。
 ここでようやく、ファラオは「今度は私が間違っていた」と認めます(27節)。これは大きな変化です。今までも「主に祈ってくれ」とモーセとアロンに嘆願することはあり、主の力強さを認めることはありましたが、初めて自らの罪を認めたのです。そして、彼らが去ることを許します。モーセは、彼の願い通りに主に祈ります。すると、主もその祈りを聞き、雷と雹をとどめてくださいました(33節)。
 しかし、この後どうなったでしょうか。「ファラオは雨と雹と雷がやんだの見て、またも罪に身を任せ、彼とその家臣たちはその心を硬くした」(34節)のです。ファラオは、罪を認めましたが、実のところは変わっておらず、再び罪の中に身を投じたのです。

3)神の方を向き続ける歩みを

 このところから、「真実な悔い改め」とは何か、ということがわかってきます。「悔い改め」とは「間違っていた」と認めるだけでは不十分であるということです。自らを省みて、罪を認めることは、もちろん大切なことです。しかし、「真実な悔い改め」の分岐点は、その後どのように歩み始めるのかというところにあるのです。それゆえ、パウロは「私は、…悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきた」と言います(使徒26:20)。悔い改めとは「方向転換」であるとよく言われますが、それは「ポーズ」ではなく「実際の歩み」なのです。私たちは自らを省みたいのです。心の内に「どうせ救われるのだから、罪を犯し続けても大丈夫」という思いがないでしょうか(ローマ6:15)。
 そのように考えると、私たちは、「罪を犯し続けてしまう」という現実に直面して、苦しむことがあるかもしれません。しかし、それはある意味で、神の方を向いていることの表れではないでしょうか。罪の力は恐ろしいゆえに、その戦いは生涯続いていくでしょう。しかし、神の愛とあわれみは尽きません。何度でもイエス様の十字架を見上げ、赦しをいただき、そこから再び神の方を向いて歩き始めようではないでしょうか。