金言
「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」(出エジプト10:7)

説教題 「『主が心を頑なにされる』とは」
聖 書 出エジプト記10章1~20節
説教者 栗本高仁師

 今日は父の日です。父には、家庭を治めるという役割が与えられています。そのためには子どもを教育しなければなりませんし、時には矯正することも必要かもしれません。しかし、それは子どもの心を支配するという意味では決してありません。そして、父なる神様も決して私たちの心を支配なさる方ではありません。

1)主が私たちの心を支配されるのか?

 雹による第七の災いを持って、三サイクル目に入りました。今日はそれに続く第八、第九の災いを見ます。第八の災いは「いなごの災い」、第九の災いは「闇の災い」です。今まで見てきた中で共通していたことがありました。それは、「ファラオが心を頑なに/硬くしてきた」ということです。しかし、この二つの災いの中で、不思議なことが語られています。それは「主がファラオの心を(硬く/頑なに)した」(1,20,27節)ということです。まるで、主がファラオの心をコントロールしているかのような表現です。主は、私たち人間の心を支配して、無理矢理動かそうとされたのでしょうか。

2)「主が心を頑なにする」という意味は?

 まず、ここまでのことを振り返ってみます。第一の災いから第七の災いまで、誰が心を頑なにしてきたのでしょうか。実は第六の災いだけは「主が心を頑なにした」(9:12)とありましたが、それ以外は「ファラオ自身が心を頑なにして」きました(7:2, 8:15, 19, 32, 9:7, 9:35)。つまり、ファラオはこれまでに幾度となく「心を変えるチャンス」があったにもかかわらず、「自分自身で」心を頑なにし続けてきたのです。その上で、主が心を頑なにされたのです。
 それでもなお、彼には変われるチャンスが与えられました。第八の災いでは、モーセとアロンを通して、事前に警告されていました(3-6節)。また、家臣たちから進言を受けて、イスラエルの民を去らせる一歩手前までいきました(7-11節)。第九の災いの後でも同じようなところまでいきます(24-26節)。しかし、最後の最後で、ファラオは変わりきれなかったのです。やはり、彼は奴隷であるイスラエルを完全に手放すことができなかったのです。それゆえ、最後まで「すべてのもの」を去らせることを許さなかったのです。心の真ん中にある「自我(自己中心)」が砕かれない限り、私たちも同じ道をたどってしまうかもしれません。
 ここまでのことから、「主が心を頑なにする」とはどういう意味なのかが見えてきます。まず、主が私たちの心を無理やり動かすのではない、ということです。むしろ、私たちが心を頑なにし続ける時に、その「心を頑ななままにさせる」というニュアンスに近いでしょう。つまり、主は私たちの心を支配しないがゆえに、私たちをそのまま行かせることがあるのです。私たちは、その厳粛さを覚える必要があるのではないでしょうか。

3)心が変えられる道は開かれている!

 それでは、私たちはもはや進み続ける時、後戻りができないのでしょうか。今日の箇所で、私たちに希望が与えられています。もう一度7節を見てみましょう。ここには、ファラオの家臣たちの行動が記されています。彼らはここまで「イスラエルの神である主が何をしてきたか」ということを十分に見てきました。そして、このままいけば、エジプトは滅びることが分かっていたのです。それゆえ、ファラオに「この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください」(7節)と進言したのです。
 しかし、一番初めに主は何と言われていたでしょうか。「わたしは彼(=ファラオ)とその家臣たちの心を硬くした」(1節)と言われていたのです。確かに、主が家臣たちの心も硬くしましたが、ファラオとは違い、彼らは心が変えられたのです。
 私たちがどこまで心を頑なにして突き進んでいても、主は、私たちの心の戸をたたき続けてくださっています(黙示録3:20)。そして、この家臣たちのように私たちの心も変えられることができるのです。ここに希望があるのです。私たちは、この主の招きの声にどう応答するでしょうか。