金言
「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。」(出エジプト11:4)

説教題 「主ご自身が出て来られる」
聖 書 出エジプト記11章1~10節
説教者 栗本高仁師

 私たちが理想と考える「リーダー」と、現実に立てられている「リーダー」には、大きなギャップがあるのではないでしょうか。まさに、ファラオはそのような「権力者」と言えるかもしれません。

1)最後の災いについての宣告

 ここまで九つの災いがエジプトに下されてきました。主は「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す」(1節)と言います(1節)。次の「第十の災い」が最後になるということです。そして、いよいよイスラエルの民は「一人残らず」、エジプトを去ることができるのです(1節)。
 それでは、最後の災いとはどのようなものでしょうか。「長子が死ぬ」(5節)という災いですが、実はモーセがミディアンからエジプトの地へ向かう時に、すでに告げられていたことでした(4:23)。つまり、この時のことばは、最後の災いに対する宣告だったのです。そして、いよいよこの災いが目前に迫っていました。ここまで心を頑なにし続けてきた彼でしたが、この最後通達においても、ファラオの態度は変わることはありませんでした(10節)。

2)上に立つ「リーダー」の責任

 一方で、他のエジプトの民たちの態度は、ファラオの態度とは異なっていました。彼らは、ここまでの災いを見てきた中で、少しずつ変わり始めていました。第三の災いでは呪法師が(7:19)、第七の災いでは主のことばを恐れる家臣たちが(9:20)、第八の災いでは(おそらくほとんどの)家臣たちが(10:7)、イスラエルの神である「主」を恐れ始めていました。彼らは「イスラエルの民を去らせた方がよい」と考えており、第十の災いではファラオを介さずに(前回はファラオに提言していたが)、モーセに直談判するのです(8節)。また、不思議なことに、エジプトの民たちは、イスラエルの民にも、モーセ自身にも好意を持ちます(3節)。つまり、心を頑なにしているのは、もはや「ファラオだけ」だったのです。
 しかし、ここで理不尽と思えるようなことが言われます。それは、心を頑なにしている「ファラオの長子」だけでなく、エジプト中の「すべての長子」が死ぬということです(5節)。私たちは、ファラオだけがその報いを受けるべきだと考えてしまうかもしれません。しかし、王であるファラオ一人の行動が、民全体に悲惨なさばきを招くのです(6節)。それほどに上に立つリーダーの責任が重いことを、私たちは思い知らされます。

3)「まことの王」である主の行動

 そのような意味で、ファラオは無責任な王であったと言えるでしょう。しかし、イスラエルの神であり、私たちの主である「まことの王」はそのような方ではありません。最初から、主は「わたしは(エジプトに)下って来て、彼らを導き上る」と言っておられました(3:8)。しかし、よく考えると、九つの災いではモーセとアロンを通して働いていただけでした。ところが、この最後の災いにおいて、いよいよ「わたしはエジプトの中に出て行く」(4節)と言われます。エジプトのあらゆる「長子」が死ぬ一方で、「イスラエルの子らは、…人だけでなく家畜」もすべて守られるのです(7節)。このようにして、主は「わが子であり、わが民である」イスラエルを救い出すために、責任を持って行動されるのです。
 しかし、「主ご自身が出て来られた」のは、この時だけではありません。あの2000年前のクリスマスにおいて、イスラエルの民だけでなく、全ての民を救い出すために、「私たちの主イエス・キリスト」はこの世に来られ、「私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)のです。しかし、驚くべきことが起こります。出エジプトでは、悪を行った者たちが報いを受けました。しかし、何と「罪のないイエス様」が、他者の悪をすべて受け止めて、犠牲となってくださったのです。主ご自身の「打ち傷のゆえに、私たちは癒された」(イザヤ53:5)のです。
 主ご自身が来てくださった、その恵みを今もう一度覚えつつ、このイエス様を信じるものとさせていただきましょう。