金言
「二人は話し合った。『道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内に燃えていたではないか。』」(ルカ24:32)

人生は「旅」と表現されることがあり、信仰者の歩みも、天の故郷へと向かっていく「旅路」と言える。聖書には、旅路の中に神様がどう関わってくださっているかを述べている記事がある。そのうちの一つの物語から、神様の語りかけを聴きたい。

1)イエス様の問いかけ

 二人の弟子たちが、エルサエムから60スタディオン(約11㎞)ほど離れた「エマオ」という村へ向かって歩く中で、イエス様が近づき、一緒に歩き始められた。イエス様の問いかけに彼らは暗い顔で立ち止まった。彼らはイエス様を尊敬し望みをかけていたようであるが、イエス様が十字架にかけられてしまったこと、三日目にからだが見当たらなくなったことに当惑していることを話した。
彼らは、この出来事の本当の意味がわかっていなかった。しかし、イエス様が弟子たちに「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」と語りかけてくださり、弟子たちが正直に返答をしたことに注目したい。私たちの歩みの中においても、イエス様は語りかけてくださっている。あなたは今何を知っていか?何を思っているか?と聞いてくださるのである。その時に心を開いて、知っていること、思っていることを正直に話す者でありたい。そこから、神様との真実の交わりが生まれてくる。

2)目が開かれて

 弟子たちの説明を聞いたイエス様の最初の反応は、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」であった。弟子たちはみことばの真意を悟っていなかったのである。
 悟るべき内容は何だったか。キリストが苦しみを受けてから栄光に入ること、すなわち、キリストの復活によって全人類の罪が赦され、信じる者は新しいいのちに生き、神以外の何ものも、真の意味で私たちを縛るものはなくなったということである。
 私たちも、愚かで物わかりの悪い人間である。しかしそのような私たちへのイエス様の言葉は。決して見捨てたり、貶めるようなものではなく、愛に満ち溢れたものであることを忘れずにいたい。イエス様は私たちの現実を愛をもって受けとめ、私たちが真に理解できるように、私たちの交わりの只中に来て、語ってくださる方である。
 イエス様は、聖書全体から説き明かされた。分かりやすく、権威に満ちて語られたことであろう。このやりとりを通して弟子たちの心がイエス様に引きつけられていき、一緒に泊まってくださるように強く勧めた。そして、食事をともにする中でようやくイエス様だと分かった。イエス様はすぐにいなくなり、先にエルサレムに行かれた。彼らはイエス様との道中で「心は内に燃えていた」という体験を分かち合った。
 このようなことが、実は私たちの交わりの中でも起こっている。礼拝をささげ、聖書を共に味わい、学び、交わる中で「心がうちに燃える」ことが起こる。イエス様が共に歩んでくださっている中で、与えてくださる経験なのである。

3.心燃やされて

 心燃やされた弟子たちはエルサレムに帰って行った。イエス様こそが主であり王であることを証しする者として、行くべき場所に帰ったのである。その場所で彼らは他の弟子たちと集まり、語り合い、恵みを分かち合った。
  私たちも、交わりの中で燃やされ励まされることを通して、自分のいるべき場所、行くべき場所に行き、立てるようになる。その場所は、「神様を忘れず、みことばを忘れず、祈りを忘れずに生き、主を証ししていく」と決心し続けて生きる場所である。その場所へと送り出し合っていくことが、信仰者の交わりである。私たちが遣わされている場所には、今はまだ信じていなくても神様の救いの計画の中にあり、やがて復活の主を共に喜び合えるようになる人も、備えられているのである。
 「エマオ」とは、「あたたかい泉」という意味がある。弟子たちがエルサレムから離れていこうとした道は、イエス様との交わりによって、あたたかく心燃やされる道となった。キリスト者の生涯の旅路は、このエマオに向かう途上の交わりのようなものである。共にその恵みを味わい、神様の語りかけに応答していこう。

(問1)二人の弟子たちは、何を話していたのでしょうか(13-23)。
(問2)イエス様は弟子たちに、何を語られましたか(24-27)。
(問3)心が燃やされた弟子たちは、どのように応答しましたか(28-35)。