金言
「イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」(マタイ18:22)

説教題 「何回赦すべきか 」
聖 書 マタイの福音書18章21~35節
説教者 木下順子師

 私たちが人を赦すためには、赦されていることを知ることです。
 今日の個所で、イエス様は、人を赦すべきこと、その理由を教えてくださっています。

1)七回を七十倍するまで

 イエス様は、直前で弟子たちに信仰の共同体として、個人の罪に対して、どう向き合い解決するかを語っています(15-20節)。それを受けてのペテロの質問(22節)が、自分に対する他の人の罪にどのように向き合うべきか、と言うことでした。伝統的なユダヤ教のラビの教えは、赦しは3回までで十分だ、ということでした。ですから、ペテロが語った7回という数字は、ペテロの寛大さを示すのには十分すぎるものでした。しかし、イエス様の応答は、ペテロの質問の概念をはるかに超えてしまうほどでした。
 「イエスは言われた。『わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。』」(22節)。イエス様のこの言葉は、新しい恵みの基準を提示しているかのようです。イエス様は、まるで回数を決めた赦しは、本当の赦しにならない、と答えます。つまり、何回までと決めないで、いつも赦しなさいと言われました。

2)仲間を赦さない家来のたとえ

 イエス様が語られたたとえ話が、23~34節にあります。
 王様に対して、1万タラントの借金をしている家来が出てきます。聖書の24節の注部分に「1タラントは6千デナリに相当。1デナリは、当時の1日分の労賃に相当」とあります。現在の1日の賃金を、分かりやすく1万円として、単純計算すると6千億円となります。あまりにも借金の額が大きすぎます。
 しかし、返済を命じられた家来は、「もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします」(26節)と言います。この家来が、時間的に「もう少し待ってください」と言って、返済できる金額ではありません。「すべてお返します」と言って、意気込んでも返せる額ではなく、無理です。
 この6千億円は、私たちの神様の前における罪の大きさを表しているのではないでしょうか?イエス様のたとえ話は、自分の力や努力では帳消しにすることもできない、どう頑張っても不可能な罪の借金を主の前に抱えている私たちの姿を連想させます。
 「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった」(27節)と。この家来と主君のたとえ話は、主の前に膨大な借金のような罪を持つ私たちに対する、神様の大きく広く深いご愛と憐れみ。それゆえに、一方的に負債(罪)を帳消しにしてくださる神様。そして、私たちを押しつぶす債務(罪)から解放し、心も魂も軽やかにして、新しい歩みに向かわせる、神様の十字架の愛とその罪の赦しを思わされます。
 しかし、この1万タラントの借金を赦された家来は、自分に対して100デナリ(約100万円)の借金をしている仲間を憐れみ赦すどころか、徹底的に責め、取り立てました(28-30節)。
 このような家来の行動に対して、主君は激怒しました(31-34節)。
 イエス様は、このたとえ話を通して、赦しに対する神様の深い思いと、神様に赦された者が、どのように生きるべきであるかという聖書的な在り方を教えられます。
 
 私たちは、自分の力では、自分の罪をどうすることもできません。けれども、神様はイエス様の十字架によって私の罪を赦してくださいました。だから、私たちは、イエス様が成し遂げてくださった十字架を忘れずに、赦された者として、人を赦す者でありたいと思います。天のみ国は赦し合う者の国なのです。