金言
「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。」(出エジプト15:11)

説教題 「主をほめたたえる」
聖 書 出エジプト記15章1~21節
説教者 栗本高仁師

 「歌う」という行為をキリスト教会は大切にしてきました。それゆえ、私たちは礼拝の中で、み言葉の説教とともに、賛美を大切にするのです。まさに、イスラエルの民は、歌いつつ、主をほめたたえます(1-2節)。

1)歌わずにはおられない民ー心の内から生み出される賛美

 イスラエルの民は、なぜ歌ったのでしょうか。それは、直前で葦の海における「神の大きな御業」を経験したためです。モーセが「今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」(14:13)と言った通りに、彼らはすごい光景を目の当たりにしたのです。そのことを彼らは「主はご威光を極みまで現された」(1節)と表現します。「ご威光」とは「高くあがめられる」という意味です。それも「極みまで」と強調されています。そのように言うほどまでに、イスラエルの民である一人ひとりが「私の神は本当に生きて働いている」ということを知ったのです(2節)。彼らは歌わずにおられなかったのです。
 私たちが賛美をささげる理由も同じです。しかし、私たちの内から自然と主への賛美が出てくることはないでしょう。神が私たちに救いを与えてくださったゆえに、私たちの内側に喜びと感謝と平安が生み出されて、賛美の歌をささげることができるのではないでしょうか。だからこそ、私たちはもう一度「自らに与えられた救いがどれほど尊いものであるか」を捉え直していきたいのです。

2)比類なき神をほめたたえる

 それでは、イスラエルの民は何を歌ったのでしょうか。それは一言でいうならば、「主は比類なき方である」ということです(11節)。この方に肩を並べることのできる神々はどこにもいないことを、彼らは歌います。
 どのような点で、比類なきお方なのでしょうか。まず、絶対的に不利な状況の中で、「向かい立つ者たち/敵」を「打ち破り/打ち砕いて」くださいます(6,7節)。つまり、神は弱い私たちの味方となって戦ってくださる「いくさびと」(3節)なのです。また、その戦い方も尋常ではありません。主は、風を用いて、水をコントロールします(10節)。興味深いことに、その風(ルアハ)とは、神の鼻の息(ルアハ)なのです。そして、地さえも用います(12節)。このように、自然界を造られた神であるからこそ、その自然を支配することができるのです。
 私たちが賛美をささげている神様は、他とは比べられないほど偉大なお方です。しかし、私たちは自らでその神様を小さくしてしまうことがないでしょうか。いま一度、私たちが賛美をささげている方が、どのような方であるのかということを覚えさせていただきましょう。

3)将来の希望を告白する

 しかし、注意深く見ていくときに、この歌は単に「これまで」の経験だけではないことに気づきます。なぜなら、「ペリシテ」「エドム」「モアブ」「カナン」の住民たちのところを「通り過ぎて」(14-16節)、約束の地に到着する(17節)のは、「これから」のことであるためです。つまり、彼らは先取りして「ここまで導いてくださった主は、これからも必ず導いてくださる」と告白しているのです。
 このように、私たちは賛美を通して、神様のご性質を知り、また将来の希望をいただくことができるのです。「主はとこしえまでも統べ治められている」(18節)と。そのような意味で、賛美には力があります。たとえ、自らの内から喜びと感謝が生まれてこない時にも、ともに賛美がささげられるときに、希望と勇気が与えられるためです。

 私たちも、過去になされた神の救いの御業を思い起こしつつ、この偉大な主をほめたたえ、また将来の希望を告白する賛美をささげてまいりましょう。