金言
「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出エジプト記15:26)

説教題 「荒野の旅における訓練」
聖 書 出エジプト記15章22~27節
説教者 栗本高仁師

 私たちが何かできるようになるためには、いつも「訓練、修練」が大切です。エジプトから解放されたイスラエルの民も、真に「神の民」となるために「訓練」を受けなければなりませんでした。

1)荒野での困難

 「葦の海」を渡るという「奇跡」を体験したイスラエルの民は、完全にエジプトの手から救われました。しかし、その後の旅が全く安全であったかというと、そうではありませんでした。彼らは、続いて「荒野」を進まなければならなかったのです。荒野は人が住めないところであるため、三日間歩いても水が見つかりません(22節)。ようやく水のある場所に到着しますが、何とそこの水は苦くて飲めません(23節)。それゆえ、その場所を「マラ」と名付けます。
 このように、彼らは救い出された後も、困難を経験したのです。それは、私たちキリスト者の旅路とも重なるのではないでしょうか。

2)主の声に聞き従う訓練

 困難に直面したときに生まれてくるものは、「不平、つぶやき」です。民はモーセに対して「われわれは何を飲んだら良いのか」と言います(24節)。ここで「試み(テスト)」を受けたのは、リーダーであるモーセでした(25節)。このことに対処しなければならなかったモーセは、まず主に叫びます。すると、主は「一本の木」を示されます(25節)。モーセが「それを水の中に投げ込むと、水は甘くなった」のです(25節)。彼が受けたテストとは、「主の声に聞き従うか否か」というものでした。
 この荒野での困難には、神の意図がありました。彼らはここまで何世代にもわたって、奴隷として「ファラオの声」を聞いてきました。その声は彼らの中に染み付いていたのです。だからこそ、彼らは新しい主人である「主の声」を聞いていく訓練が必要でした。そのために、神はあえて「荒野」という過酷な道を通らせたのではないでしょうか。キリスト者としての私たちの旅路も同様です。荒野という困難を通して、「私たちが本当に聞き従っていくべき方はどなたであるのか」ということを知っていくのです。

3)それは癒やされ続けるため

 この荒野での訓練は、単に主の声に聞き従わせることが目的ではありません。主は、私たちに癒しを与えたいと願っています。それゆえ、主はモーセに「一つの掟と定めを授けて」、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行(う)…なら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである」(26節)と言います。
 私たちはおそらく「苦い水が甘い水になること」と「病気の癒し」がどのように関連するのかと疑問に思うでしょう。確かに「主は私たちの病気を癒してくださるお方」ですが、ここでは「(いわゆる)病気の癒し」だけを言っているのではありません。「水が飲める」ということは、「いのちが保たれる」ことです。つまり、主こそが「いのちを与え、保ってくださるお方なのだ」と教えているのです。彼らは「ファラオの支配」のもとで、死につながる生き方をずっと強いられてきました。そのため、その病から癒やされ続けなければならなかったのです。
 私たちも癒され続けなければならない存在ではないでしょうか。罪がもたらした多くの傷があります。しかし、主は「癒し主」です。それゆえ、私たちは主の声を聞き続け、主の目にかなうことを行うように招かれているのです。それが唯一の「いのちに至る道」だからです(ヨハネ10:27-28)。

 私たちも、この主の訓練を受けつつ、真の癒しをいただこうではありませんか。