金言
「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ1:6)

説教題 「完成させてくださる神」
聖 書 ピリピ人への手紙1章3~11節
説教者 栗本高仁師

 敬老祝福礼拝を迎えました。心からの感謝と祝福を祈ります。

1)私たちの終わりは「希望」

 私たちの人生は、始まった時点で「終わり」へと向かっています。それは老若男女問わずです。もし、その「終わり」が「肉体の死」だけを意味しているのであれば、確かに希望はありません。しかし、聖書が語る「終わりの日」とは、それぞれの「死」の先のことを指しています。つまり、私たちは「死」で終わることなく、その先に「よみがえり」があるのです(ヨハネ6:40)。それゆえ、私たちが「終わり」へと向かうことには、希望があります。
 パウロも同じように、「終わり」には希望があることを語ります。なぜなら、信仰者である私たちの人生は「完成」へと向かっているためです(6節)。やがて、イエス・キリストが再臨するとき(「キリスト・イエスの日」)までに完成するのです。

2)始めてくださった方が、完成させてくださる

 それではどのように完成へと向かうのでしょうか。パウロは、その前に「まずどのようにして始まったか」ということを語ります。
 彼は手紙の冒頭で、読者であるピリピの信徒のゆえに感謝の祈りをささげています(3-5節)。どうやらパウロの彼らに対する思い入れは非常に強かったようです。それは、ピリピ教会がヨーロッパの中で最初に生み出された群れであったためです。彼らは、パウロを通して「イエスの福音」を聞き、信仰が与えられ、救いの恵みにあずかりました。さらに、彼らはこの素晴らしい福音を他の人と分かち合って(コイノニア)いたのです(5節)。だからこそ、パウロは「いつも喜びをもって」祈っていたのでしょう(4節)。私たち教会にとっての最大の喜びは経済的に豊かになることでも、有名になることでもありません。まさに一人の「信仰者」が誕生することなのです。
 しかし、パウロは決してそれが「自分のおかげ」だとは言いません。その信仰を与えたのは「神」であるという確信に立ち、彼は「神に」感謝するのです(3節)。私たちの間で良い働き(福音を聞き、信仰者とされること)を始めてくださったのは、紛れもなく「神ご自身」です(6節前半)。
 始まりがそうであったように、完成も同様です。パウロはすかさず「良い働きを始められた方は、…それを完成させてくださる」と語ります(6節後半)。もちろんいつ完成するのか具体的な時はわかりません。しかし、パウロと同じように私たちは確信できます。私たちの信仰を始めてくださった方が、最後まで責任を持って、完成へと導いてくださるのだと。ともすれば、私たちは信仰をいただいた後は、自分で努力してやっていこうとしてしまうかもしれません。しかし、私たちが立つべきところは、すべては「神のわざ」であるということではないでしょうか。

3)愛が豊かになり、キリストの義の実に満たされる

 それでは、その完成とは具体的にどのようなことでしょうか。パウロは、過去についての祈りだけでなく、将来についても祈ります(9-11節)。
 その完成とは、まず「愛が豊かになること」です(9節)。その時、私たちは「大切なことを見分けることができ」るようになるのです(10節前半)。もう一つは、「純真で非難されるところのない者となること」です(10節後半)。これは素晴らしいことです。自分自身を省みるときに、自分は責められるところばかりだと考えてしまうかもしれません。しかし、神は「キリストの日に備えて」、私たちを「責められるところのない者」としてくださるのです。なぜそのようなことが可能なのでしょうか。それは「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされる」ためです。これ以上の恵みがあるでしょうか。

 私たちの人生の旅路は「完成」へと向かっており、それを成し遂げてくださるのは「神」です。その信仰に立ち、希望を持って歩ませていただきましょう。