金言
「彼は言った。『その人にあわれみ深い行いをした人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい。』」(ルカ10:37)

説教題 「あなたも行って同じようにしなさい」
聖 書 ルカの福音書10章25~34節
説教者 栗本高仁師

 今月最終週の礼拝ですので、私たちの教会のビジョンについて見ていきます。今日は二つ目のビジョン(宣教)の「地域の人々に仕える」について見ます。

1)地域の人々に仕えるとは?ーあなたの隣人を愛しなさい

 「宣教とは何か」ということを見ていくときに、二つの側面があります。その根拠はイエス様ご自身にあります。イエス様は、私たちをこの世に遣わし、ご自身の働きを「教会」に託されました(ヨハネ20:21)。イエス様ご自身のお働きとは何だったでしょうか。それは、「ことば」と「わざ」です(ルカ24:19)。つまり、私たちにとっての宣教は、イエスの福音を「宣べ伝えること(=ことば)」と「良いわざに励むこと」だと言えるでしょう(第一ヨハネ3:18)。だからこそ、私たちの教会の二つ目のビジョンである「宣教」において、「福音を伝えていくこと」だけでなく、「地域の人々に仕えていくこと」が含まれているのではないでしょうか。今日開かれている箇所のテーマである「隣人愛」(27節)は、まさに「地域の人々に仕える」ことそのものであると言えます。

2)私たちが問い直さなければならないこと

 イエス様はこの「隣人愛」の重要性を語っておられます(マタイ22:40)が、この「良きサマリア人」のたとえ話をもって、さらにこの教えを深めています。
 この話は、一人の律法の専門家が「イエスを試みようとした」ことから始まっています(25節)。イエスが本当に聖書の教えに従う正しい人物であるかどうかを試そうとしたのです。彼は自分たちこそが「正しい」と自負していたので、その正しさを示すために、「では、私の隣人とはだれですか」と質問を重ねます(29節)。そのことをきっかけとして、たとえ話が始まります。ある人が、強盗に襲われ、全てを奪われて、死にかけで放置されてしまいます。すると、そこに3人の人が通りかかります。一人は「祭司」、もう一人は「レビ人」、最後は「サマリア人」です。この中で「この傷ついた人」を助けたのは、何と最後の「サマリア人」でした。先の二人は、見て見ぬふりをしたのです。
 ここには、この律法の専門家をはじめとする宗教指導者たちに対する痛烈な皮肉が込められています。律法を守っていると自負していた人たちが隣人愛を実践せず、むしろ律法を守っていないとレッテルを貼られていた「サマリア人」が実践したのです。つまり、イエス様は「あなたがたも、この祭司とレビ人と同じではないか」と問うておられるのです。私たちも「自分が正しい」と思っているところに、実は問い直さなければならないことがあるのかもしれません。

3)「だれの隣人になるのか」という招き

 この「良きサマリア人のたとえ」には、私たちが「地域の人々に仕えていく」ための鍵があります。この律法の専門家は「誰が私の隣人ですか」と尋ねましたが、イエス様は「誰が隣人になりましたか」(36節)と質問を変えています。彼らは初めから「隣人が誰であるのか」とその枠を設けていました(律法守る「ユダヤ人」だけ)。しかし、この「サマリア人」は、そのような枠を設けずに、目の前の倒れている人を「見てかわいそうに思い」、手を差し伸べたのです(33節)。そこにあるのは、まさにイエス様の愛の心です(ピリピ1:8)。イエス様はどのような時もそのあわれみの心をもって人々をご覧になりました(マタイ14:14)。その人が「どのような人であるか」は関係ありません。
 私たちも「隣人の枠を私たち自身で決めてしまっていないだろうか」と問われます。私たちが目を上げて、地域の人々に目をとめていく時、「あわれみを必要としている方」がおられるでしょう。だからこそ、「誰が隣人なのか」というところから「誰の隣人となるのか」という価値観の転換をさせていただきたいのです。その時に、私たちは本当の意味で「地域の人々に仕える」ことができるのではないでしょうか。
 
 今日、イエス様は「あなたも行って、同じようにしなさい」(37節)と私たち一人ひとりをも招いておられるのではないでしょうか。