金言
「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。』」(出エジプト16:12)

説教題 「必要を満たされる神」
聖 書 出エジプト記16章1~12節
説教者 栗本高仁師

 私たちは霊的な存在でありながら、同時に肉体を持つ身体的な存在であるため、両者は影響を及ぼし合います。まさに、荒野でのイスラエルの民もそのことを経験します。

1)身体的必要を満たす神

 彼らは、エリムを旅立ちシンの荒野に入ります(1節)。水に続いて、今度は「食べ物」がありません。そのため、彼らはモーセとアロンに対して「あなたたちは私たちをこの荒野で飢え死にさせようとしている」と不平を言います(3節)。驚くべきことかもしれませんが、彼らは空腹のゆえに、ここまで自分たちになしてくださった「主の救いの御業」を思い起こすことができません。ほんの数日前、主が苦水を甘い水に変え、渇きを満たしてくださったにもかかわらずです。明らかに彼らには「主への信頼」、つまり「出エジプトの主が、この荒野でも必要を満たしてくださる」という「信仰」が欠けていました。このように身体的な欠乏が、私たちの不信仰を明らかにするのです。
 そのような彼らに対して、主はどうされたでしょうか。何と主は彼らの不信仰を叱責するのではなく、すぐに「彼らの不平を聞き」、空腹を満たす(エジプトの時と同じように満ち足りる)と約束されます(4,8,12節)。主は、私たちの弱さを理解し、受け止め、あわれみをかけてくださるのです。

2)霊的必要を満たす神

 しかし、主は身体的必要を満たしてくださるだけではありません。彼らにとって本当に欠乏していたのは、「必要を満たしてくださるのは神」であるという「信仰」であったためです。
 彼らが主に信頼することを学びとっていくために、主は「毎日」彼らに信仰のテスト(試み)を与えられました。どのようなテストでしょうか。主は彼らに天からのパンを与えられますが、「民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければな」りませんでした(4節)。不思議なことに、毎朝パンが与えられますが、その日に集めたパンをストックすることはできず(20節)、地に残されたパンも日中には溶けてしまいました(21節)。ただし、安息日(七日目)の前日の六日目だけは例外でした。安息日は全き休みのため、彼らがパンを取りに行かなくても良いように、六日目は2倍を集めて、翌日に残すことができました(22-25節)。いずれにしても、彼らは「主のおしえに従って歩むこと」を通して、「主が日毎に十分な糧を与えてくださる」という信仰を養っていかなければなりませんでした。
 しかし、彼らの中には「朝まで一部を残す者」(20節)、「七日目にパン集めに行く者」(27節)がいました。イスラエルの民は、「いつまでわたしの命令とおしえを拒み、守らないのか」と言われるような者たちだったのです。それでもなお、主はカナンの地に入るまでの「四十年の間マナを」与え続けました。まさにそれは、「こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る」(12節)ということを成就させるためであったのです。
 私たちも、「すべての必要を満たしてくださるのは神である」という信仰をもって歩んでいるか問われます。

 イエス様は、ご自身とマナを比較しておられます(ヨハネ6:48-51)。私たちにとって「すべての必要を満たすいのちのパン」はまさに「イエス・キリスト」です。聖餐式において、私たちはそのイエス様のいのちをいただくのです。