金言
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
説教題 「新しいいのちの道へ」
聖 書 ヨハネの福音書3章1~21節
説教者 栗本高仁師
本日は召天者記念礼拝です。私たちは、先に召された方々をただ偲ぶだけではなく、再会できる希望を抱いて礼拝をささげます。
1)生きてほしいと願う神
この希望は私たちに与えられた「永遠のいのち(復活のいのち)」のゆえです。すべての人はこの「永遠のいのち」を求めていると、私たちは思うかもしれませんが、事態はそう単純ではないことがわかります。なぜなら、私たち人間(世)は、「光よりも闇を愛する」存在であるためです(19-20節)。「光」は「いのち」と対応するので(1:4)、実は私たちは自分で「死(闇)」に向かって行ってしまうのです。その根本的な原因は「悪を行ってしまう性質」すなわち「罪」です。罪そのものが、私たちを自己破壊していきます。そこに罪の恐ろしさがあります。
しかし、この世界を創造し、私たち人を造られた神が願っておられることは、すべてのものに「死」ではなく「いのち」を、「滅び」ではなく「救い」を与えることです(15-17節)。闇を愛してしまう私たち(世)を、神は愛してくださるのです。それゆえ、私たちは恐れることはないのです。
2)私たちのコントロール化にはない
それでは、私たちは一体どのようにして「永遠のいのち」にあずかるのでしょうか。
実はこの話は、パリサイ人であり、ユダヤ人の議員であるニコデモが、イエス様のもとに来たことから始まります。なぜ彼はイエスのもとに来たのでしょうか。それは、イエスのしるしを見たため、イエスを「神のもとから来られた教師だ」と認め、この方こそメシアだと期待したためでしょう(2節)。このメシアの到来は、「神の国」の実現とともに「永遠のいのち」の獲得を意味していました。そして、神の教え(律法)を厳格に守っていたニコデモは、当然この神の国のメンバーであると思っていました。
しかし、イエスの答えは予想外のものでした。何と「人は新しく生まれなければ」、すなわち「水と御霊によって生まれなければ」「神の国を見ること、入ることはできない」と言われます(3,5節)。しかし、彼は全く理解できません(9節)。なぜなら、彼にとって神の国に入る条件は「神の教えを守ること」であったためです。しかし、それは私たちのコントロール化にあることではありません。イエスは、そのことを「風(霊と同じ言葉)」のたとえを用いて説明されます(8節)。すなわち「御霊」の働きは、私たちが動かせるものではないのです。つまり、イエスの答えは、彼の根底を覆すようなことでした。しかし、実は「永遠のいのち」にあずかるためには、まさにこのように「新しく生まれる」必要があるのではないでしょうか。
3)新しいいのちの道が開かれた
それでは、「永遠のいのち」にあずかることに関してはお手上げ状態なのでしょうか。イエス様は最後に、ニコデモがよく知っている話を用いて、「永遠のいのち」に至るための道を示されました。それは、モーセが荒野で蛇を上げた出来事です(民数記21:4-9)。イスラエルの民は罪のゆえに、荒野の蛇に噛まれて殺されそうになりますが、モーセが作った「青銅の蛇」を仰ぎ見た者は「生きた」のです(同9節)。同様に、イエスも十字架に上げられ、「わたしを仰ぎ見る者は生きる」と約束してくださったのです(15節)。つまり、私たちが「永遠のいのち」にあずかる鍵は、「イエスご自身」にあります。このイエスの働きを通して、私たちは「新しく、御霊によって生まれ」、「永遠のいのち」にあずかるのです。
この「新しいいのちの道」は、「神が」ひとり子であるイエスを、「私たちに」与えてくださったことによって開かれました(「私たちが」、「神に」何かを与えたことによってではない)。つまり、それは「神からの賜物」なのです。私たちは、このプレゼントを受け取る(=信じる)だけで、罪から癒やされ、救われ、永遠のいのちをいただけるのです。
先に天に召された方も含め、イエスを信じた私たちは、もうすでにこの「永遠のいのち」にあずかっている恵みに感謝しつつ、この喜びを携えていこうではないでしょうか。