金言
「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。」(ヨハネ6:9)

説教題 「一人の少年を通してなされた奇跡」
聖 書 ヨハネの福音書6章1~15節
説教者 栗本高仁師

 「五つのパンと二匹の魚の奇跡」は、4つの福音書すべてに記されています(マタイ14:13-21,マルコ6:32-44,ルカ9:10-17,ヨハネ6:1-13)。しかし、ヨハネの福音書だけが、この「五つのパンと二匹の魚」を持っていたのは「一人の少年」であったことを語ります。

1)あわれみの目を注ぐイエス様

 イエス様がガリラヤ湖の「向こう岸」(寂しいところ:マタイ14:13)に行かれた時のことです。イエス様は山に登られ、弟子たちとともに座っておられました(3節)。実は、イエス様も弟子たちも休むためにこの場所に来ました(参考マルコ6:31)。しかし、イエス様のもとに、大勢の群衆がついて来ます(2節)。ここで、イエス様は「目を上げて」、ご自分の方に近づいて来る大勢の群衆を「見る」のです(5節)。イエス様はどのような目を持って、彼らを見られたのでしょうか。面倒くさそうな目をされていたのでしょうか。そうではありません。むしろ「あわれみに満ちた眼差し」でした(マタイ14:14)。イエス様はどのような時にも、「目を上げて」、あわれみの心を持って私たちの方を見てくださるのです。

2)どうにもならないと思ってしまう私たち

 あわれみの眼差しを向けられたイエス様は、この大勢の群衆のために食べ物を与えようとされます。何とその数は男だけで5千人以上でした(10節)。すると、イエス様は弟子の一人であるピリポに「どこからパンを買ってこようか」と聞かれます。それは彼を試すためでした(5節)。ピリポは常識の範囲内で「200デナリ(6ヶ月程度の労賃!)あっても足りません」と答えます(7節)。つまり、彼にとってはあり得ない問いかけだったのです。その時、アンデレという別の弟子が「ここに、一人の少年がいる」と言います。彼は「大麦のパン五つと、魚二匹」を持っていました(9節)。この少年は近くで話を聞いていて、自分の持っていた食べ物を差し出したとも考えられるでしょう。しかし、ピリポは「こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう」(9節)と言うのです。
ピリポやアンデレだけでなく、私たちも同じように考えることでしょう。しかし、この少年は違っていたのかもしれません。何か役に立たないでしょうか、と自分の持っている物を差し出したのです。私たちもイエス様の前では、「わずかなものではどうにもならない」という常識を捨てて、ある意味で「子どものような心」を持つ必要があるのではないでしょうか。

3)「わずかなもの」を用いるイエス様

 この「一人の少年」の「五つのパンと二匹の魚」を見たイエス様は、弟子たちとは違う反応をされます。まず群衆を草原に座らせ(10節)、次にパンをとり、感謝の祈りをささげてから、分け与えられます(11節)。何と、それが十分に食べてもなお、12のかごいっぱいになったのです(13節)。明らかに計算は合いません。しかし、主は「それが何になるのか」と言われるようなものを用いて、私たちの必要を十分に満たしてくださるのです。
 私たちはこのところから二つの側面で教えられたいのです。一つは、「自分自身に対する見方」です。イエス様は、私たち人を通して、祝福のわざをなそうとされます。しかし、その働きの豊かさは、私自身が持っている能力の大きさとは無関係です。たとえ、私たちが「五つのパンと二匹の魚」しか持っていなかったとしても(もちろん多く持っていたとしても)、イエス様がそれを幾倍にも増やして、用いてくださるのです。それゆえ、イエス様の前で「取るに足りないもの」は誰一人いないのです。
 もう一つは、「他者に対する見方」です。イエス様が一人の少年を通して奇跡をなされたことには深い意味があるでしょう。子どもは神の働きにおいて「役に立たない存在」とみなされていました(マルコ10:13)。しかし、イエス様は「一人の少年」のわずかな「食べ物」を用いられたのです。もし、私たちが「目に見えるところ」で隣人のことを判断をするなら、神の働きを妨げてしまうことになのではないでしょうか。  私たちもイエス様が見ているように、この世界を見ていきたいと願います。