金言
「イテロは、がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、とりわけ、エジプト人の手から救い出してくださったことを喜んだ。」(出エジプト18:9)

説教題 「良きおとずれを聞くものが」
聖 書 出エジプト記18章1~12節
説教者 栗本高仁師

 「良き知らせ」であったとしても、ある人にとっては「悪い知らせ」となることがあります。しかし、主の救いの出来事は、すべての人のためのものです。まさに、出エジプトの出来事もそうでありました。

1)良きおとずれが知れ渡る

 モーセのしゅうとであるイテロは、主がイスラエルをエジプトから導き出したことを聞きます(1節)。そのため、自分のもとに送り返されていたモーセの妻ツィポラと、二人の息子を連れて、モーセのところへ向かいます(2-3節)。詳しくは書かれていませんが、モーセがミディアンを旅立った後(4:20)、どこかのタイミングで妻と息子たちを安全なミディアンの地へ送り返していたのでしょう。直前のアマレク人の地だけでなく、このミディアンの地にも、イスラエルの民に起こった出来事が知れ渡っていったのです。
 このように、主がなされた偉大なわざは広がっていきます。主がなされた最も偉大なわざ、それはイエス・キリストの十字架と復活です。その救いの知らせである「福音」が、エルサレム、ユダヤ、地の果てにまで広がっていき(使徒1:8)、事実日本にいる私たちにも届けられました。暗い時代の中にあって、「福音」そのものが広がっていくことの希望を覚えましょう。

2)良きおとずれを語るモーセ

 モーセのしゅうとイテロは、神の山に宿営していたモーセのもとにやって来ました(5節)。イテロが、彼の妻と二人の息子を連れて来たことを知らせると(6節)、モーセはしゅうとを迎えに出てきます(7節)。そして、モーセは「主が彼ら(イスラエル)を救い出された次第を語った」のです(8節)。イテロはすでに、「主がイスラエルをエジプトから導き出されたか」を聞いていました(1節)。しかし、それは概要に過ぎないものでした。彼は、主の救いを直接経験したモーセから、そのを聞いたのです。その中には、エジプトで行われた十の災いを初め、葦の海での出来事、その後の荒野での試練と主の備えに至るまでのことが含まれていたことでしょう。
 ここに、福音が宣べ伝えられるときの原則があることを覚えます。「福音」そのものが広がっていくと同時に、そこには「救い出された次第を語る者」がいるということです。まさに、「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」(ローマ10:14)の通りなのです。

3)良きおとずれに応答するイテロ

 この救いの次第を聞いたイテロはどのような応答をしたでしょうか。彼は、イスラエルの民になされた救いの出来事を「喜んだ」のです。それだけでなく、イスラエルの神こそ「神々にまさって偉大である」と告白し、主をほめたたえます(10-11節;15章のイスラエルの民の賛美と同じ)。これは驚くべきことではないでしょうか。確かに親類というつながりがあるとはいえ、彼はイスラエルとは異なる民(ミディアン人)であり、そこの「祭司」だったのです(1節)。しかし、彼はイスラエルの民になされた救いの物語を、自らにとっての「良きおとずれ」として受けとめました。さらに、彼は主にささげ物をして、主の民の交わりに加わったのです(12節)。
 このように出エジプトという「良きおとずれ」は、イスラエルのためだけのものではなく、すべての国民のためのものであることがわかります。それは、キリストの福音が、すべての人々のための「良きおとずれ(福音)」であることを表しています。このところから私たちが覚えたいことは、この「福音」には(イテロが、私たち一人ひとりがそうであったように)信仰の応答へと導く力がある、ということです。だからこそ、私たちは福音を聞き、信仰をいただいた者として、キリストの福音をまっすぐに語り続ける者でありたいのです。