金言
「こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。」(出エジプト18:22)

説教題 「ともに負い合うことによって」
聖 書 出エジプト記18章13~27節
説教者 栗本高仁師

 「組織」と聞くと何か堅苦しいイメージを抱くかもしれません。しかし、私たちは集団の中で組織が形成されていくプロセスを、様々なレベルで経験してきていると思います。出エジプトしたイスラエルも、まさにその過程にありました。

1)モーセが抱えていた危うい状況

 モーセのしゅうとが来たその「翌日」のことです。彼はモーセのそばにいました。すると、さばきの座についたモーセの周りに、大勢の者たちがやって来て一日中立っているのです(13節)。その光景を目にしたしゅうとは、「これは一体何ごとか」、「なぜ、あなた一人だけがさばきの座に着いているのか」とモーセに問います(14節)。
 その問いかけに対して、モーセは、民は神のみこころを求めて自分のもとにやって来るのだ、と事情を説明します(15節)。彼しか、神の掟を教えることはできなかったのです。エジプトの奴隷状態から解放されたばかりのイスラエルは、まだまだ組織的に発展途上であり、ある意味で、モーセは大家族の家長のような存在でした。そのような様子を見たしゅうとは「あなたがしていることは良くありません」(17節)と言います。それは、一人で負うには荷が重すぎて、疲れ果ててしまうのが目に見えていたためです(18節)。
 私たちの歩みの中でも、一人だけで頑張り、疲れてしまうことがあるでしょう。身を持ってその経験をしているからこそ、私たちは改めて「一人だけで行ってしまうこと」の危険性を覚えさせていただきたいのです。

2)イテロの助言

 そのため、イテロは一つのアドバイスをします。それは、モーセにしか担えない部分と、他の人でも担える部分を区別しなさい、ということでした。特別、モーセに与えられていた働きをイテロも理解していました。一つは、今までもそうであったように「民の様々な事柄を神に取り次ぐこと」です(19節)。もう一つは、「神の掟を民に教えること」です(20節)。しかし、民の間の大きな事件は難しいかもしれないが、小さな事件をさばく指導者を立てたら良いのではないか、と提言するのです(22節)。その提言は、かなり具体的であり、組織を整える制度でした(21節)。モーセはしゅうとの助言を受け入れ、組織化された神の民となる準備が進められていきます(24-26節)。
 ここに、救われた神の民である教会の姿が表されているのではないでしょうか。まさに、「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」とある通りです(1コリント12:27)。私たちは、それぞれの賜物に従って(千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長)、互いのために配慮し合い、重荷を負い合うように召されているのです(同12:25)。教会はそのような組織であるからこそ、平安のうちに立ち続けることができるのではないでしょうか(23節)

3)重荷を負うために必要なこと

 モーセが一人で全ての働きを担うのではなく、互いに重荷を負い合うこととなりました。しかし、その重荷を追う指導者を立てるときに、ただ「力のある人」が選ばれたのではしょうか。実はそうではありませんでした。その基準として、「神を恐れる」ことが第一であり、それゆえに「不正の利を憎む誠実な人」でもあったのです(21節)。
 私たち教会が互いに重荷を負い合うときにもそのことは適用されるでしょう。それぞれに与えられた賜物・能力に応じて、役割が決められていくことは大切なことです。しかし、教会という組織の中では、神を恐れる「信仰」、そしてそれに伴う「品性」を欠くことはできないのです。逆に言えば、私たち一人ひとりがかしらなるキリストと結び合わされて、健全な信仰が深められ、人格的にも成熟していくときに、本当の意味で互いに重荷を負い合うことができるのではないでしょうか。  私たちの群れも、そのような信仰共同体として、さらに成長していくことができるように祈ってまいりましょう。