金言
「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(ルカ1:78-79)

説教題 「閉ざされたものが開かれる」
聖 書 ルカの福音書1章67~79節
説教者 栗本高仁師

 私たちの人生の中では、何かが閉ざされるということを経験します。バプテスマのヨハネの父ザカリヤも同じでした。

1)ザカリヤの口が開かれる

 年老いて身ごもっていたエリサベツは、いよいよ男の子を産みます(57節)。周囲の人々は大いに喜び、八日目になってその子に「父の名にちなんでザカリヤと名づけよう」とします(58節)。しかし、エリサベツ、ザカリヤともに「ヨハネ」としなければならないと答えます(60,63節)。彼らは御使いの言う通りにしたのです(1:13)。「すると、ただちにザカリヤの口が開かれ」るのです(64節)。ザカリヤは10ヶ月以上もの長い間、口が閉ざされ、ことばを失っていました(1:20参照)。しかし、この後に彼は聖霊に満たされて預言します(67節)。つまり、「語ることができない期間」を通して、神は彼に「聖霊」と「神のことば」を授けたのです。そのような意味で、彼は「閉ざされたこと」によって、むしろ大きな恵みを経験したと言えるでしょう。
 それは、私たちにとっても同じです。一見、「閉ざされること」はわざわいのように思えるかもしれません。しかし、そのことを通して神様は私たちにより大きな恵みを与えようとしているのではないでしょうか。

2)敵と罪による支配

 しかし、閉ざされていたのは「ザカリヤ」だけではありません。彼の預言(67−79節)を見ると、ある意味でイスラエルの民全体も「閉ざされていた」ことがわかります。この預言の中で、神が「救いの角」を立て、「敵の手から」救うことが書かれています(71,74節)。つまり、彼らはこの時、敵の手の中にあったのです。それはいつからでしょうか。実はそれは遡ること約600年前です。彼らは、イスラエルの神、主に対して不従順であったため、敵の手に渡されます(エレミヤ22:6-9)。それがいわゆる「バビロン捕囚」です。その後、彼らを治める国は変われど(バビロン、ペルシア、ギリシヤ、ローマ)、外国の支配の中にあったことは変わりませんでした。
 しかし、この後の預言を見ていくと、最大の敵は実際に目に見える敵ではないことがわかります。誕生したヨハネは「罪の赦しによる救いについて…知識を与える」と預言されます(77節)。まさに、この「罪」こそが、イスラエルの民だけでなく、私たちすべての者にとっての最大の敵と言えるのではないでしょうか。そして「罪」が、私たちを「暗闇と死の陰」に閉じ込め、平和を壊してしまうのです(79節)。

3)救いの道を開かれる神

 しかし、神はザカリヤの口を開かれたように、このように敵と罪に支配された状況を打開してくださいます。それが、クリスマスの出来事なのです。
 どのようにして実現するのでしょうか。先ほど見たように、敵からの救いを実現させるために、神は「救いの角」を立てたのです(69節)。また、罪がもたらした「暗闇と死の陰」にいる私たちを照らす「曙の光」が訪れたのです(78-79節)。その「救いの角」、「曙の光」こそ、私たちの「救い主イエス・キリスト」です。
 そして、ここで強調されていることは、イエスによってこの救いの道が開かれたのは、神の「あわれみ」のゆえであるということです(72、78節)。つまり、私たちは本来このような救いを受けるに値しない者であり、私たちが誇れるものは何もないということです。だからこそ、私たちは感謝を持って、ただ主に賛美をささげるのではないでしょうか(68節)。

 

 私たちも閉ざされる経験をします。しかし、その先に神の恵みがあること、その極みがイエス・キリストであること、それは「神の深いあわれみのゆえ」であることを覚えさせていただきましょう。