金言
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)

説教題 「飼葉桶で生まれた世界の王」
聖 書 ルカの福音書2章1~12節
説教者 栗本高仁師

 クリスマスおめでとうございます。今年も、主のご降誕をともにお喜びできることを心から感謝いたします。一人の子どもが生まれるということは大変喜ばしいことです。ましてや、久しく待ち望まれていた「救い主」であり、王である「メシヤ(=キリスト)」の誕生であればなおのことですが、実際にはどのような誕生であったでしょうか。

1)ローマ皇帝の勅令の中で

 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出」ました(1節)。多くの人々は、それぞれ自分の町へ帰ります(3節)。マリアの夫ヨセフも同様でした。彼は、ダビデの家系であるため、ベツレヘムという「ダビデの町」へ上っていきます(4節)。住民登録のためだけであれば彼一人でもよかったのですが、妻マリアのことが気がかりであったのでしょう。すでに身重になっていた彼女を連れて行き、彼女とともに住民登録を行おうとします(5節)。
 しかし、そのような中でマリアが臨月を迎え男の子を出産します(6-7節)。このところを見ると、メシヤの誕生は、まるでローマ皇帝の支配下にあるように思えます。しかし、実はそうではありません。その誕生は「ユダヤのベツレヘム」で生まれなければならなかったのです(マタイ2:5-6;ミカ5:2引用)。見えるところでは、神を信じない者たちによって治められていると感じるかもしれません。しかし、世界を治めておられる神は、そのような者を用いて、ご自身の計画を進められるのです。

2)飼葉桶で生まれたイエス

 イエスの誕生は、あまりにも簡潔に記されています。「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた」と(7節)。そこは、王であるメシアの誕生にはあまりにもみすぼらしい「場所」でした。そこで生まれた理由は「宿屋には彼らのいる場所がなかったから」とあります。マリアの出産はどれほど過酷なものであったでしょうか。120kmもの(ナザレ〜ベツレヘム)長旅であり、旅先での急遽の出産であり、家畜がいる非衛生的な場所であり、誰の助けもなかったのです。しかし、聖書はその過酷さに関してはほぼ沈黙です。むしろ、イエスが「飼葉桶で」生まれたこと、それは「彼らのいる場所がなかったため」ということだけが記されます。
 このように、王であるメシアは、人々から拒絶され、低く・貧しく生まれて来られました。そこに、メシアが一体どのようにして人々を救うのかが表されているます。救い主は、飼葉桶のような、そして人々から拒絶されるような「汚れた罪の現実」にまで降りてきてくださいました。そして、「上から」ではなく「下から」私たちを救い出してくださるのです。それゆえに、私たちはたとえどれほど悲惨な状況の中にあっても救われるという確信を持つことができるのではないでしょうか。

3)真の王であるイエス

 とても王であるメシアの誕生とは思えない状況でしたが、聖書は明確に、「飼葉桶で生まれた方こそが、救い主であり、キリストである」と語ります。それは、羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちに告げられたことばを見るとわかります。御使いは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(11節)と言います。私たちは何気なくこの有名な箇所を読みますが、実はここに住民登録をせよと勅令を出したローマ皇帝に対する「呼び名」が使われています。一つは「救い主」であり、もう一つは「主」です。当時、ローマ皇帝は自らこそ神である「主」と公言しており、ローマ人の間では彼を「救い主」と言っていたのです。しかし、そのようなローマが支配する中にあって、「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりご」こそが、世界の「救い主」であり、「主」であることが告げられるのです。
 まさに、それは「飼葉桶に生まれた世界の王」です。一見相入れないようなことばの組み合わせでありますが、私たちの救い主は、このように低く生まれ、私たちを救い出してくださった、唯一無二の方なのです。この誕生を心からお祝いしようではないでしょうか。