金言
「そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」(ルカ17:15-16)

説教題 「主の恵みを受けたものとして」
聖 書 ルカの福音書17章11~19節
説教者 栗本高仁師

 2023年最後の礼拝を迎えました。この年も神様から様々な恵みをいただいたでしょうか。私たちはその恵みをいただけるようにと祈ります。しかし、その恵みに対する感謝の祈りをどれほどしているだろうかと思わされます。

1)踏み出す信仰

 イエス様はエルサレムへと向かう途中、サマリアとガリラヤを境を通りつつ、ある村に入られます(11-12節)。すでにイエスが奇跡を行うという噂は広まっていたのでしょう。そのため、そこにいたツァラアトに冒された10人は、すぐさまイエス様を出迎えるのです。しかし、彼らは奇妙なことに「遠く離れて立」っていました(12節)。なぜでしょうか。それは、彼らがツァラアトであったためです。これは、皮膚病の一種ではありますが、単なる病ではなく、律法によって宗教的な汚れと定められていました。そのため、彼らは一般の人々とは離れて生活をしなければならなかったのです(参考レビ記13:45-46)。
 遠く離れていたところから彼らは「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と大声で叫びます(13節)。まさに、彼らは私たちと同じように恵みをくださいと祈っています。イエス様はこの様子をご覧になり、「行って、自分のからだを祭司に見せなさい」(14節)と言われますが、これは不思議なことです。なぜなら、「祭司に見せる」のは、このツァラアトが癒された後にすることであったためです。しかし、彼らはまだ「ツァアラトに冒されて」いました。
 しかし、驚くべきことに、彼らは祭司のところへと向かうのです。おそらくイエス様は、彼らがイエスのことばを信じて一歩を踏み出すかどうかを試したのでしょう。彼らは見事にその一歩を踏み出したのです。私たち一人ひとりにも、この一歩を踏み出すようにイエス様は声をかけておられるのではないでしょうか。

2)感謝する信仰

 イエス様は、このように信仰をもって歩み出すものたちの願いを聞いてくださいます。彼らは「行く途中できよめられた」のです(14節)。この時の10人の喜びはどれほどのものであったでしょうか。これでようやく人々と共に生活することができると考えたのではないでしょうか。そう思った瞬間、早く祭司の元へと行って、自分のからだを見せたいと思ったことでしょう。
 10人のうち9人は、一目散に祭司のもとへと行ったことでしょう。しかし、そのうちの一人だけは違いました。彼は何と来た道を引き返したのです(15節)。それは、イエスに感謝をささげるためでした(16節)。「大声で神をほめたたえながら引き返し」、「イエスの足もとにひれ伏し」たとあるように、彼はここで礼拝者として戻ってきたのです。その時、イエス様は「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と彼の信仰を認めて、救いの宣言をされました(19節)。
 イエス様がここで言われた「信仰」とは何だったのでしょうか。それは、他の9人にはなく、この一人だけが持っていた信仰と言えるでしょう。先ほども見た通り、10人とも信じて踏み出す信仰を持っていました。しかし、この人だけがイエスのもとに帰ってきて、感謝をささげました。なぜそのようにできたのでしょうか。それは、彼だけが、癒されたこと以上に、癒してくださった方に目が向いていたからなのです。
 私たちが問われていることも、どこに目が向いているのかということではないでしょうか。恵まれた出来事以上に、恵んでくださった方に目を向けていく時、私たちの口から自然と感謝の祈りが出てくるのです。そのために、私たちも「振り返る」ことを大切にしていきましょう。その時に、私たちは神の御業のダイジェストをもう一度見て、本当の意味で「すべてのことにおいて感謝する」ことができるのではないでしょうか。そして、私たちの信仰がさらに成長していくのです。

 この一年を終えるにあたって、一つ一つ恵みを数えてみてはいかがでしょうか。