金言
「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」(出エジプト19:5)

説教題 「新しい使命に生きる」
聖 書 出エジプト記19章1~8節
説教者 栗本高仁師

 新しい年が始まりました。今年も主がなしてくださる御業に期待したいと思います。
 法律やルールの中身を知ることは大切ですが、なぜそのようなルールがあるのかを知ることはより重要でしょう。今日から出エジプト記の後半部分の「律法」に入ります。なぜ、主はイスラエルの民に律法を与えられたのでしょうか。

1)救いを与えるための条件ではない

 出エジプトをした民は約束の地に向かって荒野の旅をしていましたが、その途中の第三の新月の日に、シナイの荒野に入ります(1節)。イスラエルの民は山の前で宿営します。モーセが神のみもとに上ると、主が彼を呼んで語りかけます(3節)。そして、イスラエルの民に言うべきことばが告げられます。主は何を語れと言っておられるのでしょうか。
 まず、イスラエルの民がここまで見てきたことです。彼らが「見た」ものとは、エジプトに対する数々の御業(「わたしがエジプトにしたこと」)、エジプトから導き出されたこと(「あなたがたを鷲の翼に乗せて」)、そして主のものとされたこと(「わたしのもとに連れて来たこと」)です(4節)。そして、このように彼らを救い出すために、主は何か条件をつけたわけではありませんでした。ただ、イスラエルの父祖たちとの約束に基づいて行動を起こされたのでした(2:24)。つまり、主は彼らを救い出す条件として「律法」を与えたのではないということです。まず、主がイスラエルを救い出したのです。
 この点が、私たちキリスト者にとっても非常に重要なポイントです。私たちは何ゆえに救われたのでしょうか。それは、私たちが従順で神の教えをしっかりと守ってきたからではありません。むしろ、神を知らず、罪が何であるかもわからずに罪を犯し続けてきた私たちを、主はそのまま受け入れて、愛し、救い出してくださったのではないでしょうか。救いは、ただ神の一方的な恵みであることを覚えたいのです。

2)主の宝として生きるため

 それでは、なぜ律法が与えられたのでしょうか。その理由が、続けて主が語られたことを見ると分かってきます。
 主はここで一つの提案をしています。それは「あらゆる民族(世界中の民)の中にあって、わたしの宝とならないか」ということです(5節後半)。どういうことでしょうか。今や彼らは「エジプトに属するもの」ではなく「主に属するもの」とされました。「全世界は主(わたし)のものである」がゆえに、イスラエルの民は「主の光」を世界に輝かせる存在にならないか、と提案されたのです。それはまさにダイヤモンドのような「特別なもの(=聖なる国民)」として、「人々を喜ばせ、祝福する存在(=祭司の王国)」となることなのです(6節)。これは、今までのような「奴隷」とは全く異なる生き方です。彼らには尊厳が与えられただけでなく、世界中の人々にもその尊厳が分け与えられていくのです。このようにして、彼らには新しい使命に生きる道が示されたのです。
 しかし、ダイヤモンドが原石のままでは輝かないのと同様で、彼らも「そのまま」では主の光を輝かせることはできません。つまり、彼らも磨かれなければなりません。そのために、彼らは主と契約を結び、主の声に聞き従っていく必要があったのです(5節前半)。まさに、その「主の声」というのが、彼らに与えられた「律法」でした。つまり、「律法」はイスラエルが新しい使命に生きていくために与えられたものであったのです。
 キリスト者である私たちが「主の声に聞き従う」理由も同じです。主の教えは、私たちを縛り付けるものではありません。主は私たちにも「わたしの宝となってくれないか」「わたしの光を輝かせてくれないか」と招いておられます。だからこそ、私たちは主の教えを一つ一つ聞き、従順を学んでいく必要があるのではないでしょうか。