金言
「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:23)

説教題 「どのように礼拝をささげるか」
聖 書 出エジプト記20章18~26節
説教者 栗本高仁師

 私たちは一週間を始めるにあたり、まず礼拝をささげます。私たちをかたち造ってくださった方に目を向け、この方に支えられて一週間を歩み出すことを覚える日ともいえるでしょう。それでは私たちはそのお方をどのように礼拝するのでしょうか。

1)恐れを抱く…

 主が十戒をイスラエルに授けられた時、民は山のふもとにいました(19:17)。凄まじい光景を見た彼らは「身震いし、遠く離れて立ってい」ました(18節)。そのため、彼らは「神が私たちにお語りにな」るのではなく、「あなたが私たちに語ってください」とモーセに願います(19節)。彼らは主の姿を直接見ることはできなかったでしょうし、はっきりと声を聞けたかも定かではありません。しかし、この光景を目の当たりにした彼らは主への恐れを抱き、主が語るのをこれ以上聞くと死んでしまうと思ったのです。
 するとモーセは「恐れることはありません」と言います(20節)。それは、神が住まいである天から降りてきて山の上に臨んだのは、あなたがたを試みて、神への「恐れ」を生じさせるためだったからです。そして、神を恐れることによって、罪に陥らないようにするためだ、と言います。つまり、彼らは「主を恐れたこと」のゆえに、何も心配いらないのです。
 逆説的ですが、私たちが神を恐れるとき、全く恐れる必要はなくなるのです。「主を恐れること」が、悪から遠ざかる、命の道であるためです(箴言16:6)。私たちも畏敬の念を持って主を礼拝させていただきましょう。

2)特別な方への相応しい礼拝

 モーセは民に代わって、主の声を聞くために黒雲に近づいていきます(21節)。そして、主はモーセにしばらく細かな律法を語ります(20:22-23:33)。
 主は最初に民に確認させています。「あなたがた自身は、わたしが天から語ったのを見た」と(22節)。彼らはこの時だけでなく、他の神々と言われる存在とは比べものにならないほどの「神の偉大さ」を見てきました。だからこそ、まず「あなたがたは、わたしと並べて銀の神々…金の神々を造ってはならない」と命じられます(23節)。当時、多くの神々を崇めることは一般的なことでした。また、それらを金や銀の像にすることも常識的なことでした。それゆえに、それらの神々と同じように主を礼拝してはいけないのです。次に、像を造ることは許されませんでしたが、「祭壇を造りなさい」と命じます(24節)。ただし、土の祭壇か、自然な石で造らなければなりませんでした。最後に、その祭壇に上ることも許されませんでした。実は、これらのことも、他の神々の礼拝と区別するためでした。
 私たちの信じている方は、聖なる特別な神です。特別な方であるからこそ、その特別な方を礼拝するに相応しい方法があります。私たちは、何よりもその主導権が神にあることを覚えさせていただきましょう。

3)御霊と真理によって

 それでは今の私たちもこの命じられた通りに礼拝をささげるべきなのでしょうか。まず、唯一の神様を「他の神々と並べて造らない」ということは変わらないことです。十戒の一つ目と二つ目にある通り、今も私たちは最も大切なこととして守り、礼拝をしています。
 しかし、もう一つの「祭壇を造って、いけにえとして動物を献げなさい」ということどうでしょうか。もはや私たちは、祭壇を造る必要も、犠牲を献げる必要もなくなったのです。それは、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものされてい」るからです(ヘブル10:11)。そのことのゆえに、イエス様は「御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」(ヨハネ4:24)と言われました。私たちの礼拝は「御霊(聖霊)」と「真理(キリスト)」にあって救われていることを喜び、感謝を献げることなのです。もはやそこには、イスラエルの民が抱いたような恐れはありません。御霊とイエス・キリストにあって、私たちは安心して神のことばを聞くことができるのです。この父・子・聖霊なる三位一体の神との交わりを喜び楽しむものとさせていただきたいのです。