金言
「しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。」(出エジプト21:2)

説教題 「奴隷から解放された者として」
聖 書 出エジプト記21章1~11節
説教者 栗本高仁師

 現代では「奴隷制」を法的に認めている国は一つもありません。先人たちの戦いの成果と言えるでしょう。しかし、今日の箇所を見て、なぜ正しい神様が奴隷制を廃止するように言われなかったのかと疑問に思うかもしれません。

1)私たちの現実に向き合ってくださる神

 民は基本的な教えである「十戒」が授けられ、次に細かな教えが語られていきます。神様をどのように礼拝するのかが語られ、今日のところから生活面についての教えが続いていきます。なぜ「奴隷」についてから始まっているのでしょうか。
 まず、それが当時のイスラエルの民の現実であったためです。古代近東の世界では「奴隷制度」は一般的であり、彼らにとっても逃れられない現実であり、何らかの事情で奴隷となる者たちがいました。しかし、単に彼らの現実であったからというわけではありません。彼らは直前まで、まさにエジプトで「奴隷」であったのです。彼らは一方的な恵みによってそこから解放されました。主はその事実を彼らに思い起こさせつつ、今度は「解放された者」として、その立場の弱い「奴隷」に対してどう向き合うのかを教えるのです。
 私たちが気付かされることは、聖書の神は私たちの現実を無視して、非現実的な「ユートピア」を語る方ではないということです。私たちの現実に目を留めてくださるお方であり、その中で語りかけ、働きかけてくださるお方なのです。

2)再出発を与える神

 確かに神はここで「奴隷制」自体を廃止するようにとは言われませんでした。しかし、今日のところを読んでいくと、当時の常識からは大きく離れていることがわかります。
 まず、男奴隷の場合、6年間主人に仕えた後7年目には「自由の身として無償で去ることができる」のです(2節)。一般的に、奴隷から自由になるためには「賠償金」を支払わなければなりませんが、一度奴隷になったものにとっては極めて困難なことでした。しかし、神は無条件に7年目で解放されるようにしなさいと命じるのです。しかも、彼に家族がいた場合は全員が解放されたのです(3節)。一方で、彼らには去らない自由も与えられていました。それは奴隷になった時に妻子が与えられる場合、妻子は主人のものであったためです(4節)。彼らと共にいることを望む場合は、終生その家でしもべとして仕えることができるのです(5-6節)。
 神様は一度自由を奪われた者に再出発する道を与えられるのです。私たちも「罪の奴隷」から解放され(ローマ6:6)、自由の道を進むことができるのです。

3)家族として扱ってくださる神

 次に女奴隷の場合ですが、男奴隷とは異なる対応が求められました。それは、彼女たちの多くは労働者ではなく、主人もしくは息子の妻や側女になることがあったためです。男性のように自由になれないのはひどいと思うかもしれませんが、むしろより弱い立場の女性を守るようにと、主はここで言っておられます。まず主人の妻とした場合、気に入らなくなったからといって異国人に売ってはなりません(8節)。必ず彼女が元の家族または親類のもとに帰れるようにしなければならないのです。次に息子の嫁になった場合、彼女を自分の娘として迎え入れなければなりません(9節)。最後に他の妻を迎え入れた場合、平等に接する必要がありました(10節)。
 神様は奴隷とされた者を「家族の一人」として大切に扱うように命じるのです。まさに、エジプトの奴隷であった彼らが神様から家族として扱われたようにです。  このところから、私たちは今日も神様が私たちのことをどのように見てくださるのかを知ることができるのではないでしょうか。そして、そのような神様の愛と憐れみの目を注がれた私たちが、今度は周りの方々にどのような目を向けていくのかが問われているのです。