金言
「キリストは自ら十字架の上で、 私たちの罪をその身に負われた。 それは、私たちが罪を離れ、 義のために生きるため。」(Ⅰペテロ2:24)

説教題 「いのちを重んじる神」
聖 書 出エジプト記21章12~25節
説教者 栗本高仁師

 私たち多くのものは「いのちは尊いものである」と認識していると思います。しかし、残念ながら日々いのちが奪われてしまう現実があります。神様はそのような現実を知っているからこそ、私たちに「殺してはならない」(第六戒)と命じておられます。

1)人のいのちを奪う時の責任

 この命令だけで人のいのちが奪われることがなくなれば良いですが、現実はそうはいきません。そのため、神様は細則を与えます。まず、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない」(12節)と命じます。人のいのちを奪う時、自分のいのちを持って償なければならないのです。つまり、他者にしたのと同じように、自分もされる覚悟を持たなければならないということです。他者のいのちも、自分のいのちも保つために「殺してはならない」のです。それほどまでに、神様は「いのちを重んじておられる」のです。しかし、現実の中で故意ではなく、誤って人のいのちを奪ってしまうことがあります。その場合には逃れる道が用意されるのです(13節)。むやみに人のいのちが奪われることがないようにするためです。
 しかし身体的ないのちを奪っていなくても「殺されなければならない」ことがあります。それが「父や母を打つ/ののしるとき」(15,17節)、また「人を誘拐したとき」(16節)です。どちらも相手のいのちを奪っていることになると聖書は言っているのです。神様は様々な意味において、いのちを重んじておられます。

2)過度な復讐を制限する

 人を死なせかったとしても、他者を傷つけたとき、責任を負わなければいけません。人が怪我をして働けなくなった時、その分を保証する必要があります(18-19節)。また、争いの中で妊婦を巻き込み早産させた場合、子どもに障害がなくとも罰金を払い、障害があればそれに応じて償う必要があります(22-25節)。また、奴隷を怪我させた場合は、彼らを自由の身にしなければいけません(26-27節)。このように、神様は公正なさばきによって、人のいのちを保たれるのです。
 しかし、もう一つの見方があります。それは有名な「目には目を、歯には歯を」ということばに表されています。これは「同害復讐法」とも言われるものですが、同じくらい復讐できるというよりも、同じ程度までにしか復讐をしてはいけないという命令です。私たちは傷つけられた時、必要以上に罰を与えたいと思ってしまいます。神様は、そのような歯止めの効かない私たちの心をよくご存知です。それゆえに、「目には目を、歯には歯を」という教えているのです。やはり、ここにも「人のいのちを重んじられる」神様の心を見ることができるのではないでしょうか。

3)イエスが私たちの全責任を負われた

 私たちが公正なさばきを受けなければならないとしたら、どうでしょうか。それほど悪いことはしていないので大丈夫だと思うかもしれません。しかし、私たちは自分で気づかずに誰かを傷つけていることがあるかもしれません。私たちが本当に心の奥深くまで掘り下げて自分を見つめるならば、おそらく公正な裁きに耐えられる人はいないでしょう。そして、聖書は「罪の支払う報酬が死である」とはっきりと語っています(ローマ6:23)。
 しかし、神は公正なさばきをしつつ、同時に私たちのいのちを重んじるがゆえに、とんてもない方法を取られたのです。それが、ひとり子を十字架につけて死なせるということです。イエス様が十字架上で私たちの全責任を負ってくださったゆえに、私たちは「あなたの罪は赦された」という救いの宣言を受けるのです(1ペテロ2:24)。そして、この「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」を賜物として受けるのです。まさに、神は公正な方として、私たちのいのちを重んじてくださったのです。
 そのようにしていただいた私たちも、この神様の心を持って、隣人のいのちを重んじていこうではないでしょうか。