金言
「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」(マタイ26:28)

説教題 「契約の血が流される」
聖 書 出エジプト記24章1~11節
説教者 栗本高仁師

 棕櫚の主日を迎え、今週は受難週です。イエスの十字架の血潮は、私たちに一体何をもたらしたのでしょうか。

1)契約の締結

 契約の中身である「律法」がモーセに語られ(20:1-23:33)、いよいよ契約が結ばれます。
 まず、モーセは民のところに来て、「主のすべてのことば、すべての定めをことごとく民に告げ」ます(3節前半)。そして、民はそれに対して「主の言われたことはすべて行います」と応答します(3節後半)。
 次に、契約が批准(=契約を結ぶ両者が最終的に確認し同意すること)されていきます。どのようにして行われたのでしょうか。
①「モーセは主のすべてのことばを書き記した」(4節)とあるように、契約書が作成されます。
②「祭壇」と「十二の石の柱」が立てられます(4節)。祭壇は主の臨在を、「十二の石の柱」は(「十二部族にしたがって」とあるように)イスラエルの民を象徴しています。
③「全焼のささげ物」と「交わりのいけにえ」が献げられます(5節)。④犠牲の動物の血を半分ずつに分けて、半分を「祭壇に振りかけ」、もう一度民に契約を確認してから、もう半分を「民に振りかけ」ます(6-8節)(血による「調印」)。
 こうして、民は「あらゆる民の中にあってわたしの宝とならないか」という神の提案を受け入れ、「神の民」として生きることを誓うのです。

2)神との豊かな交わり

 「神の民」として生きることは、「神の家族」となることです。それゆえ、そこには実に「喜び」に満ちた「交わり」があります。
 契約を締結した後、モーセに対して「あなたと、民の代表である祭司、長老たち」を上らせなさいと命じておられました(1-2節)。しかし、モーセ以外は主のもとに近づくことはゆるされず、ディスタンスを保ちなさいと言われます。
 実際にモーセが彼らを引き連れて山に登った時、驚くべきことに「彼らはイスラエルの神を見」ます(9節)。「地は神の足台」であるため、彼らはその御足の下を見たのでしょう(10節)。「神を見たら死ぬ」というのが常識であったにもかかわらず、民の代表者たちは、死ななかったのです(「神は…手を下されなかった」)(11節)。神を見ただけではありません。彼らは「神ご自身を見て、食べたり飲んだりした」のです(11節)。
 神との契約に入るということは、まさにこのように神を見つつ、ともに食事の交わりができるということなのです。

3)イエスの血による新しい契約

 私たちキリスト者も、「神の民(神の家族)」になる契約に入れられて、神との豊かな交わりの中に入れられています。
 イエスは最後の晩餐の席でこのように言われました。「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26:28)。イスラエルの民が神と契約を結ぶ際に、必要であったのは「血」でした。神にも民にも血が振りかけられたことから、それには「いのちをかけて契約を守る」という意味がありました。しかし、彼らはこの後「契約を破り続ける」のです。その原因は「罪」です。だからこそ、イエスはこの最後の晩餐において「これは…罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言われたのです。十字架で流される血潮が、私たちの全ての罪をきよめ、私たちは神との交わりが回復するのです(第一ヨハネ1:7)。
 聖餐とは、まさにその交わりの回復を私たちが味わうひと時です。やがて天においてはより「完全な交わり」が回復されますが、聖餐においてその前味を味わうことができるのです。
 この受難週において、イエスの十字架におけるわざを通して、神との交わりが回復されたことを覚えさせていただきましょう。