金言
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』」(ヨハネ21:15)
説教題 「私たちを立ち上がらせてくださる方」
聖 書 ヨハネの福音書21章15~19節
説教者 栗本高仁師
誰しも「忘れられぬ記憶」というものがあります。とても喜ばしい出来事もあれば、反対に思い出したくない辛い出来事もあるでしょう。イエスの復活という大きな喜びの中で、12弟子の一人シモン・ペテロにも忘れられないでいることがありました。
1)忘れられない出来事…
それは、イエスが十字架に架かられる前夜の出来事です(マタイ26:57-75)。ペテロは、イエスが捕えられたとき、密かにイエスの後についていきます(57-58節)。しかし、彼はイエスの仲間ではないかと疑われ、とっさに「私には分からない」とイエスの弟子であることを否認してしまいます(69-70節)。それも1回だけではありません。急いでその場所から逃げますが、2回立て続けに同じ指摘をされるのです。しかし、彼は2回とも同じように「イエスを知らない」と答えてしまいます(71-74節)。ちょうど3度目に否定した直後に鶏が鳴き、彼はすぐさまイエスから直前に言われたことを思い出します(74-75節)。
ただイエスを知らないと言っただけでも打ちひしがれてしまいますが、「たとえ死んでもあなたを知らないとは言わない」と豪語していた彼の心中はいかほどであったでしょうか。それゆえ、彼はただただ泣くことしかできなかったのです。私たちも、そのような経験を人生の中で経験するかもしれません。
2)イエスが近づき、優しく問題にふれてくださる
このような忘れたくても忘れられない思いを抱きながら、ペテロは他の弟子たちと一緒に故郷のガリラヤにいました。しかし、イエスは彼を放ってはおかれません。エルサレムですでに2回ご自身を現していたイエスは、もう一度ペテロに近づいてくださいます(1,14節)。最初はイエスであることがわかりませんが、漁をする中でイエスに気づきます(4,7節)。そして、イエス自らが食事を用意し、彼らと愛の交わりへと招かれるのです(9,12-13節)。しかし、それでもイエスを裏切った件について言い出せずにいました。
ついに、イエス自らがペテロに話しかけてくださいます。「あなたはこの人たちが愛する以上に、私を愛していますか」(15節)と。なぜ、イエスは他者と比較するような言い方をされたのでしょうか。おそらくペテロ自身のことば(「たとえ皆がつまずいても…」)を思い起こさせたのではないでしょうか。もちろん、彼を責め立てるためでないことは明白です(イエスはすでにペテロを食事に招き、赦しの中に入れておられる)。イエスは、ペテロの抱えていた問題に優しくふれてくださり、前に進む道を開いてくださったのです。
私たちがペテロと同じように経験する時も、イエス様が私たちに近づいてくださり、私たちの抱えている問題に優しくふれてくださるのではないでしょうか。
3)もう一度立ち上がらせてくださる
ペテロはどのように応答したでしょうか。もはや「私はあなたを愛しています!」と言い切ることはできまずに、ただ「あなたはご存じです」という言い方しかできません(15節前半)。まさにここに彼の「悔いし砕かれた心」を見られるのです(詩篇51:16-17)。そのようなペテロに対して、イエスは「あなたは私の弟子として失格だ」と言うのではなく、イエスの大切な働きを彼に委ねるのです(15節後半)。イエス様は、悔いし砕かれた心を持つ者を信頼し、もう一度立ち上がらせてくださるのです。
イエスは「あなたはわたしを愛するか」という問いかけをもう2回繰り返し、ペテロは3度目に言われた時に心を痛めます(16-17節)。彼は改めて「イエスを3度知らない」と言ったことを思い起こしたのでしょう。しかし、イエスはただ思い起こさせるだけでなく、3度イエスを愛する道を踏み直すチャンスを与えてくださり、彼を完全に立ち上がらせてくださったのではないでしょうか。
「復活」とは「起き上がる」という意味があります。まさに、イエスがまず「立ち上がって」くださり、私たちに「立ち上がる力」を与えてくださいます。ここに復活の希望があることを覚えさせていただきましょう。