金言
彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。」(出エジプト25:8)

説教題 「私たちのただ中に住む神」
聖 書 出エジプト記24章15~25章9節
説教者 栗本高仁師

 2024年度が始まりました。新しい地での歩みを始めている方もおられるでしょうか。新しい生活には、いつも期待と不安が入り混じるものではないでしょうか。しかし、私たちの環境が変わったとしても、私たちの神様は共にいてくださいます。

1)どこにいても共に歩まれる神

 エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、神である「主」と契約を結びました(24:1-11)。これでようやく新しい生活がスタートかと思いましたが、主はもう一度モーセに山に登るように命じます(24:12)。そして、モーセは山に登り、主の臨在である雲の中に入っていき、40日40夜を過ごします(15-18節)。そこで主は何を語られたのでしょうか。
 主は「彼らにわたしのための聖所を造らせよ」と命じます(8節前半)。聖所とは神のために取り分けられた特別な場所です。しかし、主は何のためにそれを造らせるのでしょうか。続いてこのように言われます「そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む」と(8節後半)。何と、天におられる神が、イスラエルの民のただ中に「住む」と言われるのです。実は、それは直前の「律法」と大きくかかわっています。十戒をはじめとする「律法」には「神と一緒に生きる歩き方」が書かれていました。だからこそ、神は民と一緒に歩むために、実際に住んでくださるのです。さらに、この「幕屋」は組み立て式であるがゆえに、民が移動するたびに、主も一緒に進んでくださるのです。
 私たちの信じる神様は、まさに私たちのただ中に住んでくださる方です。それは日曜日に教会にいるときだけではありません。家庭にあって、職場にあって、学校にあって、私たちが行くどこにおいても、主はともに歩んでくださるのです。

2)主体的に主と共に歩む

 しかし、この幕屋は、天からパッケージで与えられるものではありません。主は「彼らに…造らせよ」(8節)と言われました。この山でモーセに型を示して、それと全く同じように造るように命じます(9節)。
 設計図がすでに示されたものを造り始めるためには、まず「材料」を集める必要があります。民が幕屋の材料をどのように集めるのでしょうか。「わたしに奉納物を携えて来るように」(2節)とあるように、民がそれぞれが持っているものを、主に献げるのです。しかし、それは何か強制的に、一人ひとりにノルマを課しているわけではありません。「進んで献げる心のある人から」(2節)とあるように、喜んで献げるものを用いて、神の住まいが造られていきます。
 そして、奉納物として集められるリストが書かれています。それらは「金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石」(3-7節)です。しかし、実はこれらはすべて、出エジプトの時に、神の不思議なわざによって与えられたものです(参考3:20-22,12:35-36)。
 私たちはこのところから二つのことを教えられます。まず、神様は私たちと「協力して」働かれるということです。主が住まわれる場所を、民に造らせたように、神が私たちのただ中に住まわれる働きは、私たち抜きには進んでいかないのです。だからこそ、私たちは無自覚にではなく、自覚的に、神が共に歩んでいくように招かれているのではないでしょうか。
 もう一つは、私たちが神と共に歩み、協力して働くことは「強制的」なものではないということです。神は私たちと、そのような主従関係を求めているのではありません。神が豊かに与えてくださることを知り、進んで自発的に主と歩き、主と共に働くことを望んでおられるのです。

 私たちの神は、私たちのただ中に住んでくださいます。そのことを覚えさせていただき、主体的に主と生きる道を歩んでいこうではないでしょうか。