金言
「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」(ヘブル10:14)

説教題 「完全なささげ物によって」
聖 書 出エジプト記29章38~30章10節
説教者 栗本高仁師

 毎日何かを続けるということは、私たちにとって思いのほか大変なことではないでしょうか。ここまで主の住まいとして「幕屋」を造ること、そこで主に仕える「祭司」を立てることが語られてきましたが、主はこの幕屋で毎日礼拝をささげるようにと命じられます。

1)神と会い、語りかけられる

 彼らの主たる礼拝とは「ささげ物を献げる」ことでした。実に多様なささげ物が献げられたのですが(詳細はレビ記にある)、ここでは「(毎日献げる)常供のささげ物」(29:42,30:8)について書かれています。
 まず、幕屋の庭にある「祭壇」で献げる物です(38節)。そこでは、毎日、朝と夕方に一匹ずつ「一歳の雄の子羊」が「全焼のささげ物」として献げられます(38-39,42節)。しかし、動物だけではなく、オリーブ油を混ぜた小麦粉(穀物のささげ物)、さらにぶどう酒(注ぎのささげ物)が添えられます(40節)。それらが献げられるとき、「芳ばしい香り」が上り、食物のささげ物として主に受け入れられるのです(41節)。それゆえ、主は「その場所でわたしはあなたがたに会い、その場所であなたと語る」と言うのです(42節)。毎日の礼拝の中で、主は「すべての民と会い、語ってくださる」のです。こうして、文字通りそこは「主の住まい」となり、主は「彼らの神となる」のです(45節)。天におられる神は、私たちが神と出会う手段を備えてくださるのです。

2)神に祈りを献げる

 しかし、幕屋の中にはもう一つ「祭壇」があります。それが「香をたくための祭壇」であり(1-5節)、聖所の中に置かれます(6節:聖所と至聖所を仕切る垂れ幕の前に)。そこでは、アロン(大祭司)が「香りの高い香」を朝ごとに、夕ごとにたいて、煙を立ち上らせます(7-8節)。つまり、幕屋本体の外で「常供の全焼のささげ物」が献げられているのと同じ時に、中では「常供の香のささげ物」が献げられるのです。
 この香のささげ物は一体何を表しているのでしょうか。それは、「私の祈りが 御前への香として 手を上げる祈りが 夕べのささげ物として 立ち上りますように」(詩篇141:2)と詩われるように、彼らは、朝ごとに夕ごとに、この立ち上る煙とともに「主への祈り」をささげていたのです。
 このように、毎日の礼拝の中で、民は神の語りかけを聞くだけでなく、神に語りかけることができたのです。主との相互のやり取り、そこに礼拝の本質があるのです。

3)イエスという完全なささげ物を通して

 私たちの礼拝はどうでしょうか。祭壇はなく、毎日全焼のささげ物が献げられることもありません。なぜなら、そのようなささげ物がなくとも、私たちは神と会い、神のことばを聞くことができるからです。イスラエルの民は、祭司が毎日同じいけにえを献げていましたが、大祭司なるイエス様はご自身を「完全ないけにえ」として献げてくださったのです(ヘブル10:11-14)。その「一つのささげ物によって」私たちは「聖なるもの」とされ、「聖なる方」に近づくことができるのです。
 ここまで主が住まわれる「幕屋」について語られてきましたが、大切なことは、全て「イエス・キリスト」につながるということです。幕屋そのものが「イエス」ご自身を表し、神と私たちの間を仲介する大祭司も「イエス」であり、幕屋の礼拝でのささげ物も「イエス」なのです。天の神が私たちのただ中に住み、私たちの神となる道が、「イエス・キリスト」を通して開かれたのです。
 しかし、私たちも日毎に献げるものがあります。それが祈りではないでしょうか。朝に夕に香のささげ物が献げられたように、私たちも朝に夕に祈るものとさせていただきたいのです。私たちの声は、天の右の座におられるイエスを通して、天の神に届くのです。この幸いの中を歩ませていただきましょう。