聖 句「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた。」 (ルカ7:13)

説教題 「絶大な力とあわれみ深さ」
聖 書 ルカの福音書7章11~17節
説教者 栗本高仁師

 イエスが語られた弟子の姿(6:20-49)を体現したのが、あるローマの百人隊長でした(7:1-10)。その核心はイエス様の語ることばへの信頼、すなわちイエス様にはすべてにまさる「神の権威」があるという信仰にありました(7:7-9)。その直後において、その権威が証明されます。

1)死をも超える力

 イエス様が「ナイン」という町に行かれた時のことです(11節)。イエス様一行が町に入ろうと門に近づいた時、反対に町から出て行こうとする一行に出くわします。それは死者を葬りに行く人々でした(12節)。イエス様一行とは対照的な、ただならぬ雰囲気が漂っていたことが想像できます。なぜなら、この母親は夫に先立たれた「やもめ」であり、唯一の希望であった「一人息子(唯一の子)」さえも失ってしまったためです。
 このような大きな悲しみの中で、イエス様は思いがけない行動をとります。何と「近寄って棺に触れ」て、その葬列を止められるのです。そこに居合わせたほとんどの人は、その行為を快くは思わなかったでしょう。しかし、その行為はあの百人隊長の信仰告白に表されたイエス様の「力ある権威」を証明するためのものであったのです。イエス様は「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と言われました。すると、その言葉通りに「死人が起き上がって、ものを言い始めた」のです(15節)。イエス様が持っておられる権威、それは死をも超えるほどの力です。私たはこの世にある権威とは比べ物にならないことを覚えるのです。

2)ただの預言者ではない

 この出来事の後、周囲の人々は恐れを抱きます。そして「偉大な預言者が…現れた」とか「神がご自分の民を顧みてくださった」とかいう反応が見られます(16節)。なぜこのように言われるのでしょうか。実は、ある旧約聖書のストーリーが深く関わっています。かつて、あの偉大な預言者であるエリヤも、一人のやもめの息子を生き返らせたのです(1列王記17:17-24)。ここにいた人々はそのことを思い起こし、エリヤのような預言者が現れ、神が私たちを顧みてくださっていると告白したのです。
 イエス様は神から遣わされた救い主、メシアです。それゆえ、イエス様の働きは神様の働きであり、まさに神が私たちを顧みてくださったことの現れです。しかし、彼らの告白では不十分です。なぜなら、イエス様は預言者のようなお方ではありますが、預言者以上の方だからです。その証拠に、エリヤは三度神に祈って生き返らせたのに対して(1列王記17:20-21)、イエス様はただ一度ご自身のことばで生き返らせました。イエス様が神の権威をお持ちであることが、まさに証明されたのです。

    3)あわれみから始まる

     このように私たちは、イエス様こそが偉大な権威を持ち、そのことばには力があることを覚えるのです。しかし、今日の物語を見るときに、イエス様はただ権威をお持ちのお方ではないことに気づきます。
     イエス様が死者を生き返らせるわざをなさったのは、なぜでしょうか。それは、ご自身の権威を明らかにするためではありませんでした。イエス様はこの一人息子を失った「母親を見て深くあわれみ」とあるように、イエス様の「あわれみ」のゆえに、彼女と息子を救われたのです(13節)。この「あわれむ」ということばは「内臓がねじれるほどにかわいそうに思う」という意味があります。イエス様は、本当に胸がはりさけそうな母親の痛みを、自分ごととして引き受けられたのです。
     しかもそれはイエス様発信のあわれみなのです。このやもめが、特別に百人隊長のような信仰を働かせたとは書かれていません。ただ、イエス様は彼女をあわれみ、御業をなされたのです。信仰がなければ救われないというのではありません。まずイエス様から私たち一人ひとりを見てくださり、あわれみをかけてくださり、力あるわざをなしてくださるのです。この大きな恵みの中に私たちが入れられていることを心から感謝します。